イギリス人について

24/September/2025 in Kraków

*English ver

私は以前イギリスに2年半住んでおり、それ以降も複数回訪問をしているので、今更「イギリス人の印象」といったことを書くのはおかしな気もする。しかし今回のロンドン訪問で興味深く思ったこともある。1つはMicro/Small communication(ごく小さなやりとり)、もう一つはノンシャランな態度についてである。どちらも、英語が第一言語であることに関係があると私は考えている。


• Micro/Small communication

イギリス人は「Sorry」と頻繁に言う。道でぶつかりそうになる時ならまだしも、ぶつかるはるか前に私が進行方向を少し変えただけでも「Sorry」と言っていた。他にも、郵便局ではこちらが聞いていること以上を細かに説明されたり、トイレの場所をたずねる前から教えられたり、バスの待合所で話しかけられたりすることもあった。

この背景には「礼儀正しさ」といった文化要因や、多民族国家という環境要因もあるのだろうが、私はそれよりもイギリス人が英語のネイティブスピーカーであることが大きいと考える。英語が母語なので、当然ながら言葉が何も考えることなくすらすらと出てくる。話すことに対する心理的抵抗が限りなく低いのである。

・・・このように考えてきて、いま住んでいるポーランドにおいて、私はポーランド人に英語を話すよう強いていることに初めて気がついた。私はどう見てもアジア人なので、ポーランド人が私を目にしたとき、「自分の母語(=ポーランド語)が通じない」ということはすぐに分かる。そのため彼らは私に英語で話すことになるわけだが、そこで省略されてしまうことは多いだろう。「母語なら言うことや、母語なら言えることでも、わざわざ英語に訳してまで言わない」という場面は多いはずだ。言葉数が自ずと少なくなるのである。

この結果、ポーランド語を解さない外国人の目には「ポーランド人はSmall talkをしない」や、「ポーランド人は親切じゃない」と映ることもあるだろう。しかしそれはあくまでも、ポーランド語がわからない外国人の主観的印象であって、客観的真実ではないといえる。

ポーランド語であれば示せるはずのポーランド人の様々な感情の機微を、私は数多く取りこぼしてしているであろうことに初めて思い至ったのである。


• ノンシャランな態度

イギリス人はノンシャラントに見える。その理由は彼らが自分の言語を話しているからだろう。

ロンドンからポーランドに戻るとき、空港の保安検査場で私の靴が引っかかった。40歳前後の男性職員がやってきて靴だけを調べ、すぐに先に進むことができたが、その職員が去り際に言った言葉はしばらく頭に残った。

「Thank you sir, have a good day, yeah」

これは英語のネイティブスピーカーだけしか使うことのできないフレーズだった。時刻はその時すでに20時である。「そんな時間に『Have a nice day』などと言うのは自然なのだろうか?」と思うのは、私が英語を第二言語として意識的に身につけたからであろう。

私たちは他言語に分析的態度でアプローチしてしまう。そのため、例えば相手が良い一日を過ごす望みを込めた「Hava a good day」のような表現は、「一日の残り時間がまだ十分にある午前や午後、遅くとも夕方ごろまでしか使えない言葉だろう」と考えてしまう。

しかしネイティブスピーカーであるあの男性職員が、午後8時であるにもかかわらず「Hava a good day」と言ったということは、この表現には字義通りの「良い一日を」という意味以外に、「さよなら」「バイバイ」といった別れの意味も込められていると考えられる。これはネイティブスピーカー以外には一般的にわからないことである。非ネイティブスピーカーは、まず言葉を字義通りに解釈していまうからである。

アメリカ人が「How are you?」と言ってきたのに、その返事を聞かないうちに立ち去ってしまうことを指して、「アメリカ人のフレンドリーさはフェイクだ」とよく批判されるが、これは「How are you?」に分析的なアプローチをしてしまうことから起きる誤解であろう。末尾に疑問符が付いていようが、アメリカ人はこれを疑問文としても、相手の状態をたずねる表現としても見ておらず。単に「こんにちは」と同じものとして習慣的に使っているのである。

さてあの男性職員は、言葉だけでなく、その言い方も印象的だった。「Thank you sir」にも「Have a good day」にもたいして感情がこもっておらず、極めてシステマティックに、半自動的に、非常に乾いた口調で放たれたからだ。確かに彼は職業柄、このフレーズを一日に何百回と繰り返しているに違いなく、その反復が口調にも反映されていると考えて間違いないだろう。しかし私はここにも実にネイティブスピーカーらしさを感じたのである。

他言語を話す時、私たちは得てして少しだけ過剰な量の感情を言葉に乗せているのではなかろうか。「Have a nice day」や「Thank you」をネイティブスピーカーのようにノンシャラントには言えず、いつもなにがしかの感情を絡みつけてしまう。

心と言葉の間にはいつも必ず距離がある。母語で話しているときには、その距離を適切なものに微調整できるだろう。しかし他言語ではその調整が難しい。その結果、時により過剰に、あるいは過小に(特にその言語の学び初めのとき)感情を乗せてしまうことがあるだろう。

イギリス人の英語は私の耳に実にノンシャラントに聞こえてくる。ポーランド人や私が英語を話している時のようなどもりやよどみがなく、終始すらすらと、何の苦労のあともなく出てくるのである。これは彼らが自分の言語を話しているのだから当然なのではあるが、ネイティブスピーカー特有のものであると感じる。どれだけ英語をうまく話せる人でも、このようなノンシャラントな響きが出るまでに達している人は見たことがない。これは、「考える」という脳のプロセスが他言語を話す時には必ず挟まるからであろう。

他言語を話すことは常に不安である。「Apple」という言葉があの赤い果物を指していることを、私たちは体験からではなく知識で理解している。そのため、赤い球形の果物を指して「Apple」と言ったとき、もし他の人が怪訝な顔つきをしたら、まず自分の知識を疑うことになる。「英語でこれはAppleというのはなかったか?」と。もしこれが母語の「りんご」であったら、自分の知識に疑義を抱くのではなく、まず周囲の無理解を疑うであろう。この赤い果物に「りんご」という名前がついていることに確信があるからである。

このように考えてくると、頭で考えたことや知識といったものは絶対的な安心を与えてはくれないとわかる。安心とは考えて割り出すものはなく、心で感じるものなのだろう。