言葉で表現できないもの
10/October/2025 in Kraków
「言葉で表現できないもの」が存在するから、絵や音楽や彫刻や舞踊といった「言葉を使わない表現方法」で表現する、というのは分かりやすいことだ。しかしそうならば、文学とは「言葉で表現できないもの」を扱っていないことになる。小説はすべてが他ならぬ「言葉」によって構成されているのだから、「言葉で表現できないもの」という概念と根本的に矛盾する。
しかしこれは、自分を隠す方法と同じなのではなかろうか。自分を隠す方法にはふたつある。ひとつは人前では無口でいること。もうひとつはおしゃべりになって、大量の情報を相手に与えることでどれが「自分」なのかを判らせないようにする方法。
文学とは大量の言葉を使い、すべてを言葉だけにすることで、逆説的に「言葉で表現できないもの」を表現しようとする試みなのではなかろうか。
音楽や絵から受けた感動を言葉にするとき、その変換作業は自分で一から行わなければならない。音楽や絵には言葉が使われていないのだから。
一方で小説から受けた感動を言葉にするときには、該当部分をそのまま抜き出してこれるような気がしてしまう。文学には言葉が使われており、最初から最後まで言葉によって埋め尽くされているのだから。
しかしいざ抜き出してみても、それが自分の感動を表すには足らないことに気が付く。自分の感動の一部でしかないことに気が付く。ではどこを抜き出してくればいいのだろうか。
それは特定できないのである。その小説で使われている言葉の数が多すぎて、場所を指定できないのである。「この小説『全体』から受けた感動」という言い方だけが最もふさわしいものになる。
「言葉」の根本機能とは「指定」「特定」である。しかしそれができないということは、逆説的に「言葉で表現できないものを表現している」ということになるだろう。大量の言葉が使われることによって、「言葉で表現できないもの」が表現されてしまっているのである。