ワルシャワのオホタ(Ochota)地区の思い出

10/March/2021

オホタ地区には、二〇一八年一二月から翌年九月まで住んでいた。オホタに関して、独立したものを書く予定は当初なかったのだが、実はこの滞在記を書き始めた感情的なきっかけは、ここに住んでいた頃の思い出や記憶に強く誘われたからであった。そしてこのエリアについて調べてみると、多くの興味深い事実もわかってきた。住んでいた当時身の回りにあったさまざまな謎の解決を数年後の未来に行っている感覚、つまり未来の自分が過去の自分に答えを与えているような感覚とは悪くないものである。

オホタ(Ochota)

オホタ地区はワルシャワ中央駅から南西に向かって広がるエリアで、緑の多いモコトフスキ公園(Pole Mokotowskie)やワルシャワ大学のキャンパス、大学病院(Centrum Medyczne WUM)、マリー・キュリー(マリア・スクォドフスカ)の開いた旧放射線研究所、高速バス乗り場のあるワルシャワ西駅、美しい赤レンガの浄水場(Filtry Lindleya)、ショッピングモールのブルーシティ(Blue City)などがある。私が住んでいたのはオホタ地区の中でも特に「スタラ・オホタ(Stara Ochota)」と呼ばれるところで、色あせたピンクのソビエスキ・ホテル(Sobieski Hotel)の立つザヴィシャ広場(Plac Artura Zawiszy)の五叉路を北天に、南はモコトフスキ公園、そして西にワルシャワ西駅を結んだ、ちょうど三角形のエリアである。ここはワルシャワ中央駅とショパン空港を結ぶ175番バスの通り道となっており、そのバス停の一つ、ポムニク・ルムニカ(Pomnik Lotnika 01)からヴァベルスカ通り(Wawelska)を挟んだ向かい側に、私の住んでいた建物がある。

住所はラシンスカ五八番(Raszyńska 58)で、ここはちょうどヴァベルスカ通りとラシンスカ通りの交差点にあたり、交差点の真ん中にはあとで触れるポムニク・ルムニカの像があって、部屋からはその後ろ姿が眺められた。私の家の周囲一帯は「コロニヤ・ルベツケゴ(Kolonia Lubeckiego)」と呼ばれ、第一次大戦と第二次大戦の狭間に建てられた新古典主義様式の建物が並んでおり、建物保存地区の指定を受けている。車の音が絶えないラシンスカ通りから一本中に入ったユゼフ・メノフスケゴ通り(Józefa Mianowskiego)とマウルツェゴ・モホォナツケゴ通り(Maurycego Mochnackiego)には、喧騒から離れた静けさと瀟洒(しょうしゃ)な雰囲気がある。晴れた日には、通りの両側に立つ建物の白い壁が美しく、取りつく島もないような灰色の建物群が並ぶワルシャワの他のエリアとは、明らかに異なる優しい光がここにはおちているのであった。

ウニヴェルスィテツカ通り(ul. Uniwersytecka)

家の前の交差点に立つポムニク・ルムニカの像は、飛行機のプロペラに左腕を絡ませて立つ男の姿をかたどった一五メートルの像である。戦間期の有名なパイロットをモデルにしたこの像は最初、ここから二キロほど東にいったウニ・ルベルスキ広場(Plac Unii Lubelskiej)に立っており、それはそこが一九三九年まで使われていたワルシャワ空港(現モコトフスキ公園)の東端にあたっていたからである。像は一九四四年のワルシャワ蜂起時にナチスによって破壊されたものの、戦後の一九六七年、場所をこのヴァベルスカ通りとラシンスカ通りの交差点へと移して再建された。像が南を向いているのは、モコトフスキ公園から場所を移して開港したオケンチェ空港(現ショパン空港)がその方角にあるからだが、私がかねがね不思議に思っていたのは、この交差点を境にして、市中心部と空港とを結ぶ通りの名が「ラシンスカ通り(Raszyńska)」から「ジヴィルキィ・イ・ヴィゴォレ通り(Żwirki i Wigury)」へと変わることであった。

その理由を説明する前に、家の横の通りに触れておきたい。私の住む建物の一階の、三メートルほどある、黒色の重い門を開けてラシンスカ通りへと出て、そこから南に五メートルほど進むと、小さなキオスクとレンタル自転車の停車場がある。そのキオスクの裏側から北西方向に伸びる道はウニヴェルスィテツカ通り(Uniwersytecka)といい、環状に広がるユゼフ・メノフスケゴ通りとマウルツェゴ・モホォナツケゴ通りと交差して、ナルトヴィチ広場(Plac Narutowicza)とぶつかるまで続いている。道沿いに立つ建物が美しいことをのぞけば、全長五〇〇メートル、幅五メートルほどの、これといって特徴のない通りであるが、私が不思議に思っていたのはその名前である。ポーランド語を解さない私にも、「Uniwersytecka」という通りの名前が、英語の「university(=大学)」となんらかの関わりがあることは察しがついた。周囲を見渡すと、確かにナルトヴィチ広場には、あとで触れる巨大な学生寮(Akademik)があり、またウニヴェルスィテツカ通り五番地にも小さな学生寮(Pineska)がある。しかし、学生寮があるというだけで「university」という名をつけるのは仰々しく、またウニヴェルスィテツカ通りがナルトヴィチ広場とぶつかる通りにはアカデミツカ(Akademicka)という名が与えられていて、その響きは「アカデミア」という学術とのつながりを再び想起させるのである。

ウニヴェルスィテツカ通りはもともと、南東方向に伸びる大通りとして計画されており、ナルトヴィチ広場を起点に、今のモコトフスキ公園を大きく横切って、マドリンスキエゴ通り(ul.Madalińskiego)近くに建設予定だったワルシャワ経済大学(SGGW)がその終点となるはずであった。この大通りの敷設計画は一九二五年に始まり、ワルシャワ経済大学の校舎をはじめとするいくつかの建物が建てられた。しかし一九三四年に、南西方向にあるオケンチョ地区で空港(現ショパン空港)が開港し、市の中心部と空港とを結ぶ幹線道路の整備が必要となったため、この大通り建設の計画は変更され、ウニヴェルスィテツカ通りはヴァベルスカ通りとの交差点で途絶えることになった。そしてラシンスカ通りから、空港のある南に向けて新しく建設された通りにはジヴィルキィ・イ・ヴィゴォレという名が与えられ、この通りの名がポムニク・ルムニカの像を境に変わることになったのである。

ポムニク・ルムニカの像から一〇〇メートルほど東にあるバス停「Pomnik Lotnika 03」の近くに、ひと気のない門がある。この門を超えて南に進むとモコトフスキ公園へと至るが、今になって考えると、この通りこそ戦前の大通り計画の名残りであろう。

スタラ・オホタ地区とスタラ・モコトフ地区を結ぶ大通りとなるはずだったウニヴェルスィテツカ通りは今、道の左右に立つ広葉樹の葉が互いに触れ合うほど幅は小さく、車の往来もほとんどない。まぶしい夏の季節には、下の道がうす暗く感じるほど枝が四方八方に伸びて入り混じり、その先々で実った水々しい葉が作る陰の中を、近所に住む老人たちがゆっくりと歩いている。

ナルトヴィチ広場(Plac Narutowicza)

ウニヴェルスィテツカ通りを北西に五〇〇メートルほど進むと、ナルトヴィチ広場にぶつかる。このエリアを上空から見ると、ちょうど四分の一に切ったバウムクーヘンのような形で、その中心の空洞部分がスタラ・オホタの中心部、ナルトヴィチ広場である。ポーランド第二共和国(一九一八〜一九三九年)の初代大統領にして、わずか五日間の在職でこの世を去ったガブリエル・ナルトヴィチの名を冠するこの広場は、プラガ地区やボラ地区へとつながるトラム乗り場を中心にして、カフェチェーンのネロやイタリアンレストランなどが円弧の上に並ぶが、特に目を引くものは聖母教会と巨大な学生寮である。

一九三八年にネオ・ロマネスク様式で建てられたこの教会は、その直後にはじまった第二次世界大戦とワルシャワ蜂起によって大きく破壊されたが、戦後に再建され、今では黒いレンガのファサードが重厚な雰囲気をかもしだしている。その壁には、トラム乗り場を見下ろすように、色の褪せた聖画像がかかっている。青と緑の輪を背景に、紺碧(こんぺき)の衣装をまとった人物の上半身と、赤の衣装の子供が描かれたこの絵は、かつてチェンストホヴァで見た「黒いマドンナ」を想起させると同時に、東方教会のイコン画の面影も色濃くあって、ポーランドが東方教会との狭間に位置する国であることを改めて思い出させる。教会の中には、ポーランドの抵抗の歴史を描いたステンドグラスが輝いているというが、私は内部に入ったことはない。

教会の前に小さな花屋が二つ並んでいて、私は何度かここで花を買った。冬が終わりつつあったある日の夕方、店頭に並べられた赤のカーネーションを数本手にとって、引き戸を開けて中に入ると、若い女性が奥の方で花の選定をしているのが見えた。レジには六〇代と思しき女性が立っている。私はこのような時、いつもある種の気まずさを感じていたのだが、それは私がポーランド語を解さないためである。清算中にこの老齢の女性が何かを言っても、それはポーランド語であることが確実であり、私は理解できない。そこで若い方の女性が英語とポーランド語の通訳者としてヘルプに入り、結果として二人の店員を煩(わずら)わせるという、私としてはあまり気の進まない場面がすぐに頭に浮かんだ。それでもすでに私は小さな店内に入ってしまっているのだから、レジに向かうしかない。しかし思いがけなかったのは、レジの老齢の女性が英語を話せたことである。むしろ若い女性の方はポーランド語しか話さないようであって、意外に思った。

ポーランドも日本と同じように、英語を解する老齢の人は稀であり、二年間のポーランド滞在中、私は三人しか会わなかった。一人はこの花屋の店員、もう一人はオホタの家の家主で放射線研究所の所長、そしてモコトフの家の横の小道で話しかけてきた盲目の初老女性である。

聖母教会とともに目を引くもう一つの建物が、ワルシャワ工科大学(Politechnika Warszawska)の学生寮である。私には監獄としか見えなかったこの重苦しい建物が、実は学生寮であることを知って驚いたものだが、歴史をひも解くと、実際にナチスが第二次大戦中に刑務所として使っていた時期があったという。一九三〇年に完成したこの新古典主義様式の学生寮は、戦争とワルシャワ蜂起によって大きなダメージを受けながらも修復を重ね、今も現役の寮として、二〇〇〇人の学生たちの住処となっている。

学生寮のナルトヴィチ広場を見下ろす壁には、鷲(わし)を配したポーランドの国章がはめ込まれている。色あせたこのエンブレムは、この陰鬱な建物が政府機関のもの、つまり刑務所であろうという私の推測を深める材料であったのだが、よく見ると、現在のポーランド国旗に描かれている鷲とは少し異なっている。国旗の鷲は王冠をかぶっているのに対し、この学生寮の鷲にはそれがないのである。