ポーランドは「親日国」という錯誤

15/March/2021

ポーランドは「親日」であるとよく言われる。私は「親日」という言葉にいいようのない不快感を覚えるのであるが、その理由はあとで説明するとして、まず最初にポーランドがなぜ「親日」といわれるのかを紹介する。次の二つの理由がよく言及される。

一つが日露戦争で、「極東の小国」日本が、「世界の強国」ロシアを打ち破ったことが、当時ロシアの圧政下にあったポーランド人を勇気づけたという話である。当時のポーランドはロシアを含む周辺国の分割支配を受けており、ポーランドという国の名前自体が地図上からは消えていた。日露戦争にはポーランド人兵士もロシアの戦力として多数参加しており、戦後は日本の捕虜となったポーランド人も少なくない。後のポーランド初代国家元首ユゼフ・ピウスツキは日露戦争中の明治三七年に来日して、明治政府にポーランド人捕虜の待遇改善を依頼した。それを受け、松山捕虜収容所に送られていたポーランド人捕虜の待遇を改善したという小話も伝わっている。

もう一つがシベリア孤児である。一九一七年のロシア革命後、シベリアには流刑となったポーランド人が五万人ほどいた。そこでは、ロシア革命とそれに続く内戦の影響で多くの孤児が出たが、彼らをシベリアに出兵していた日本が助け出したのである。日本赤十字の主導で約七五〇人のポーランド孤児を日本は受け入れ、必要な治療を施し、ポーランドへと帰還させた。

これら二つの理由とともに、外交官の杉原千畝についても言及されることが多い。杉原はナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人に日本通過のビザを発給して命を救ったことで有名で、近年ではその話がドラマや映画にもなっている。杉原がいたのはリトアニアのカウナスで、ポーランドではないのだが、ビザを受け取った人の中には多くのポーランド系ユダヤ人がおり、その絡みでこの「命のビザ」の話も、ポーランドが「親日」の理由として使われることが少なくない。 日本とポーランドの歴史的なつながりでいうと、前述のユゼフ・ピウスツキとその宿敵ロマン・ドモフスキが来日して、対ロシア政策で日本政府との協力を模索していた。ユゼフ・ピウスツキは、ワルシャワ中心部の「無名戦士の墓」の前に像が建っていることからもわかるように、ポーランド史に名を残す豪傑であるが、彼の兄はアイヌ研究家として日本とのつながりが深い。

日本とポーランドの国交は一九一九年に始まり、第二次大戦の混乱を途中に挟みながらも、二〇一九年には一〇〇周年をむかえ、それを記念して皇族がワルシャワを訪問している。またこれは「つながり」というよりも「奇縁」であるが、ポーランドが二〇世紀に唯一宣戦の布告をした国が日本であった。これは当時ロンドンにあったポーランド亡命政府が一九四一年におこなったもので、これを受けた当時の内閣総理大臣、東條英機は「イギリスとアメリカの圧力で行われたもの」として受諾を拒否している。実際のところ、日本とポーランドは第二次大戦中も諜報分野で緊密な連携をしていたので、当時のポーランドの立場上、表向きは英米に従うしかなかったのであろう。しかしこの宣戦布告の効力は第二次大戦終結後も長く続いており、戦後日本とポーランドが国交を樹立するのは一九五七年と遅れることになった。

ここまで紹介した話はすべて歴史の話なので、現代にも目を向けてみる。ワルシャワの街を歩くと、日本とのつながりを感じさせるものが目に入る。例えばワルシャワ中央駅からほど近いオホタ地区を歩くと、日本語で大きく名前の書かれた建物が目に入る。ここは日本政府の援助によって一九九四年に開校したポーランド日本情報工科大学で、その名前の通りプログラミングやコンピューター分野に特化した大学である。卒業生に話を聞いてみると、日本に興味がある学生というよりも、情報科目を学びたい学生や、グラフィックデザインに興味がある学生の集まる学校のようだが、外国にある学校のロゴマークに日本語が使われているのは珍しい。

ワルシャワ中心部の観光客でにぎわうフミルナ通りには、日本文学を中心にあつかう書店「Tajfuny」がある。ここをオープンしたのは日本に留学経験のある若いポーランド人女性で、日本の女性に関する著作をすでに出版されている方である。そもそも私がこの店のことを知ったのは、ある冬の日カフェにいると、横に座っていたカップルが着物の女性が表紙に印刷された本を読んでいて、私がその本について伺ったところ、その著者が日本を専門とする研究者で、かつ書店を運営されている経営者でもあることを教えられたのがきっかけであった。それからしばらくして、あるイベントでその著者であり書店オーナーでもある氏と少しお話させていただいたことがあるが、津島佑子(太宰治の次女)の名前を出されたのが印象に残っている。またワルシャワ工科大学の近くには「Niigata Onigiri」というおにぎり屋があり、そして二〇二〇年秋には新世界通り近くにマンガ喫茶がオープンしている。

このようにポーランドと日本とのつながりを示すエピソードは、過去だけでなく現代においても枚挙にいとまがないように見えるが、それではポーランドは「親日」なのであろうか。私は「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という曖昧な答えしか持ち合わせていない。それはこの問いの立て方自体が不遜だからである。私は「親日」や「反日」といった言葉を使う人間に対して否応ない嫌悪を感じるのであるが、特に「親日」という言葉には、周りにどう思われているのか始終思いを巡らす日本人的な卑屈な態度、どれだけ自分が愛されているのか気になってしょうがない日本人的な自己愛に満ちた態度、自分からアクションを起こすのではなくただ愛されるのを待つ日本人的な受け身な態度が見えて、うんざりするのである。もし百歩ゆずって「親日国」なるものが存在しており、そこの国の人々は日本を並外れて好きだとしたら、果たして日本人はどこの国に対してそのような「並外れた感情」を抱いているのであろうか。どこの国にも特別な感情をもっていないのに、自分たちだけは特別に好かれることを期待しているのはおかしなことである。このようなところに、私はある種の日本人の救い難い幼児性を見る。

国籍や人種といった当人の意ではままならないことを人物判断に用いないことは、外国生活を送る上での最低限の外交礼儀であり、さらには精神衛生上の有用な心がけでもあって、私は他人にも同じ態度を期待しているのであるが、「親日」や「反日」といった言葉は真っ向からこれに相対するものであり、その排他思想と厚顔無恥、裏に透けて見える優越意識、そしてそれを恥ずかしくも思わない自意識の徹底的な欠如に不快を覚えるのである。

ポーランドは「親日」なのかという問いには、「他の国と同じように、ポーランド人の中にも日本に興味のある人がいる」という平俗な、まじめな、道徳的な、八方に目を配った、謙遜まみれの、莫迦にお行儀のいい答えだけが私の価値観に沿う。補足すると、ポーランド人の若者では、日本よりもはるかに韓国の方に興味のある人が多かったのが私の実感である。

これまでの記述で明らかなように、私は自分の「日本人性」、例えば国籍だとか文化だとかに過度な焦点が当たることを好ましく思わない。外国に住んで、自分の国籍や言語に関係するものを褒められて嬉しく思うのは最初の一年ほどである。その後もいい気分でいられるのは、よほどの鈍感者か、度が過ぎる楽天家だけであろう。多くの人は、そこにある種の軽薄さを感じて、耐え難くなる。これは国籍や言葉、または文化というものが自分の努力の結果得たものではなく、先天的に「与えられたもの」であるので、そこに確固たる自尊心なりプライドなりを見出すのが難しいからであろう。しかしそれが故に、自分の中の「日本人性」との付き合い方には非常に難しいところがあるのも事実である。

外国、特に欧州という歴史的、文化的、そして民族的に日本とまったく異なる場所に住むとは、自分が日本人であることを四六時中つきつけられて生きることでもある。特に外見的差異というのは、一見してあきらかな分、その影響も根深いものがある。私はここで日本人の体格の貧弱さとか、鼻の低さとか、歯並びの悪さとか、くすんだ肌の色とかといった、明治時代から日本人が西洋人に対して延々と唱え続けている呪詛を繰り返しているのではない。そのような優劣の問題ではなく、外見的差異は内面的差異よりもあからさまに、自分が異邦人であり、マイノリティであり、アウトサイダーであり、その社会においては浮き草的存在であることを「理屈抜きの実感」として眼前に突きつけることをいっているのである。そしてそれが必ずしも悪い感情ではないことが、この事柄の扱いをさらに難しくする。つまり、確かに外国に住むことは自分がある種のピエロ、いわば動物園のエキゾチックアニマルになることであるが、エキゾチックアニマルにもエキゾチックアニマルなりの喜びがあるのである。母国では何者でもなかった自分が、ただ場所を変えるだけで、まさに一夜にして、特別な存在になれるからである。

一見これは単なる経済学の問題に見える。商品を高く売りつけるには、それが希少な所で商売をすればいい。ゾウはケニヤの森林に生きる子供を喜ばすことはできないが、船に乗って海を渡り上野動物園のオリに入れば、鉄筋コンクリートに囲まれて生活する日本の子供の垂涎の的になれる。しかし人間には複雑なこころの働きがあるので、外国に行って、自分が外国人であるが故に特別扱いされても、遅かれ早かれ、その裏付けのなさに耐え難いものを感ずるようになる。それでも自分の顔は変わらないので、いつまでも特別扱いされ続けるのである。そしてそのようにもたらされる酩酊は、一滴一滴が微弱である分、ずるずるとそこに甘んじて、ながくながく悪酔いしてしまう危険を孕む。

海外に長く住んでいると、自分の国籍や文化、「アジア人」とか「日本人」とかいった一面的な理解で人と交流が始まることに、だんだんと憂鬱なものを覚えるようになる。それがコミュニケーションの入り口となることは重々理解しているが、それでも早くそのフレーズを脱して、一人の人間同士として向き合うステージにたどり着きたくなる。いつまで経っても私の国のことばかり聞いたり、どこかで耳にした風変わりな日本の習慣や奇習についてばかり問われるのは、沈黙を言葉で埋めるために天気について延々と話す人と接しているような感覚すら覚える。

そのような意味で私が積極的にお近づきになりたくないと思うのは、日本語を学ぶ学生だとか、日本に人並み外れた興味がある人、つまり日本を特別視している人たちである。わざわざ私の国の文化や言葉に興味を持ってくれたことは嬉しく思う。しかし自分から近づいていこうとは、もはや思わない。

人間関係が長くつつけば、「知り合ったきっかけ」の重要度は下がる。なので日本文化や、日本語への興味を入り口に人と知り合っても、問題はないはずである。しかし私はそのプロセスを経ることがもう嫌なのである。「日本語を話せる人」や「日本に興味のある人」というのは、自分が初めて外国に住む時にはとてもいい友達候補である。彼らが自分を特別扱いしてくれることは明らかであり、拒絶してくることはほぼないのだから。しかし外国にいる年数が長くなってくると、日本に特別な興味がある人や、私が日本人であることを知るとたちまち自分の知識や経験から日本に関係があること、ありそうなこと、ときにまったく関係のないことを引きずり出してきては延々と話し始める人、「I love Japan」だとか「中国人は嫌いだけど日本人は大好きだ」だとかの低俗なうれしがらせをいう人などに、一方で「それはそれはどうもありがとうございます」という気持ちとともに、「もう勘弁してほしい」という、どうしようもない疲れも感じはじめる。

逆に好感を抱くのは、私が日本人であることを知ってずいぶんと経ってから、なんらの特別な感慨もこめずに「Kimonoを着たことがある」とか「金継ぎのレッスンをうけたことがある」とか話し始める人である。私の国籍や文化を特別視せず、平等な態度で扱われていると感じる。こういった人たちは、他人を国籍や宗教や歴史で判断しない、ましてや「自分の国がどれくらい愛されているか」などといった下卑た事柄とは別次元に生きる成熟した人たちなのである。