ポーランドは「悲劇の国」という錯誤

20/March/2021

ポーランドに「悲劇の国」というイメージを抱く人は少なくない。私もその一人であり、そのような漠然とした哀しみのイメージに魅せられ、惑わされ、欺かれ、そしてしまいには引っ越してしまったといっても過言ではない。このようなイメージが湧いてくるのは、なにより日本とポーランドのつながりが薄いからである。大部分の日本人にとってポーランドが依然として「未知の国」だからこそ、想像力が刺激され、さまざまな夢がそこに入り込む。夢の酵母は唯一「知らない」ということだけで、「知っていてなお美しい」などという事態はあり得ない。かくして人間にとっては、知らないことだけが美しく、知らないことだけが役に立つのである。

さて、日本でポーランドが紹介される時には、次の三つのことが頻繁に言及される。つまり「ナチスとソ連による徹底的な破壊と殺戮、そして戦後の共産主義の抑圧」「アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所」、そして「周辺国からの分割占領と一〇〇年以上にわたる国名の消滅」である。そのためポーランドの歴史とは、虐げられた者の悲しみ一色で塗りつぶされているように見えてしまって、そこに同情心をそそられる日本人も少なくない。これに輪をかけるのが、甘く感傷的なメロディで有名なショパンが、ポーランド出身であることだ。

しかし歴史を少しひも解けば、ポーランドが「領土的野心」なるものをもって周辺国を侵略していることがわかる。そして侵略を受けたリトアニアやベラルーシ、そして特にウクライナの視点から見ると、世に流布するイメージとは異なる姿をポーランドは見せるのである。

「ポーランド=ソビエト戦争」といっても、普通の日本人には馴染みのない戦いである。それはこれが、第一次大戦と第二次大戦の間に挟まれた複雑な時期に起きた出来事だからであるが、この戦争は第一次大戦後のパリ講和会議で一二三年ぶりに独立を回復したポーランドが、旧領土の再獲得を目指して一九一九年にソ連へと侵攻したことに始まる。ロシア、プロイセン、オーストリアによる三度にわたるポーランド分割(一七七二〜一七九五年)以前のポーランドは、ヨーロッパの巨大国家であり、その領土は、北はバルト海から南は黒海にまで及んでいた。今のベラルーシ、ウクライナ、そしてロシアの一部がその領土に含まれており、それら東方地域の大部分は、ルブリン合同でリトアニア大公国を併合することでもたらされたものであった。

一九一八年の独立回復後に、その「失われた東方領土」を求めて起こしたのがポーランド=ソビエト戦争であり、その結果、リトアニアの一部地域、ベラルーシ、ウクライナ西部のガリツィア地方をポーランドは取り戻す。しかし「取り戻す」とは支配者側の見方であって、ポーランドとロシアの間にある国々からすると「支配された」なのである。例えばヴィリニュス(現リトアニアの首都)はポーランドとロシアで奪い合いとなり、国際連盟が調停に入っている。「命のビザ」で有名な杉原千畝の勤務する日本国総領事館が、リトアニア第二の都市カウナスにあったのは、首都ヴュリナスが当時占領されていたからである。ウクライナに関しては、西ウクライナ人民共和国を侵略してガリツィア地方を占領したが、ポーランドの「領土的野心」はそこだけにとどまらず、ウクライナ全域の獲得をも目指していた。キエフのソフィア大聖堂の前には、一七世紀にポーランドと戦ったフメリニツキーの像が立っていて、歴史をひも解けば、中世から長い間、ウクライナはポーランドの支配下にあったことがわかる。第一次世界大戦後、ポーランドは国土を回復したが、ウクライナはポーランド、ソ連、ルーマニア、チェコスロバキアの四カ国によって支配されることになった。

このような歴史のため、ポーランドとの関係に対し、言うにいわれぬ感情を抱くリトアニア人やウクライナ人に私は会ったことがある。かつて加害者であったことが、のちに被害者となったときの同情の余地を奪うわけでは決してないが、隣人の瞳には日本人とはまた違うポーランドの姿が映っているのであり、ポーランドは大国に囲繞、蹂躙され、常に弱者として虐げられてきたといった甘いセンチメンタルなイメージは、正確とはいえないのである。

しかしこのように書きつづっていても、ある種の空虚感が立ち籠めてくることは否めない。ある土地が元々A国の領土だった、B国はそこを侵略した云々という話があっても、そこにどれほどの意味があるのだろうか。歴史の始まりから絶えず国境線が変化し続けてきたヨーロッパの国々や、いやらしいほど人為的な直線の線で区切られたアフリカ北部などを見るまでもなく、「国土」や「領土」「土地」、そして「民族」などといったものは、所詮は人間の言葉遊びに過ぎないところがある。

人類の歴史とは戦いの歴史であり、奪い合いの歴史であり、所有権の主張の歴史であるが、それを思うといつも私は、野の動物たちがいかに「善き生」を生きているのかと嫉妬を禁じ得ないのである。ヨーロッパの公園ではリスを見かけることが多い。人間が餌を持って近づくと、彼らはすばやくそれを口でくわえて走り去っていく。餌をくれた人間に何らの感謝の念も示さないばかりか、人のものを掠め取った罪悪感すらも感じていない素振りに、リスには所有権という観念が甚だ希薄なことがありありと見えるが、平和と幸福のヒントとは、実はそこにあるように思えてならない。

中東欧地域最大の大国でありながら、一八世紀以降は多くの辛苦を舐めてきた歴史ゆえか、国としてのポーランドはある種のねじれたプライドを抱いているように見えることがある。傷口を故意に人に見せては同情を買おうとする子供じみたところがある。それはポーランドの政治に特に顕著で、第二次大戦の惨事、その後の共産主義の抑圧体制を筆頭に、ポーランドの負の歴史、センチメンタルな部分を強調した政治家の呪詛を聞くこともしばしばである。「ポーランドがどれほどの辛苦をこれまで舐めてきたか」をネガティブに強調するかと思えば、「そのような歴史的困難にも関わらず、いまや世界の先進国に並ばんとしている」とポジティブな文脈でも歴史は使われ、その振れ幅の大きさは時に滑稽に見える。これは特にEUに対する姿勢に明らかで、ポーランドはEUからの分配金の最大の受益者でありながら、EUの支持する法の支配の原則や、難民の割り当てには徹底的に反対してきた。このように、西欧(=EU)はポーランドを支えるべきだという態度を示しながら、言うことは聞かない身勝手さを生み出している要因の一つは、ポーランドが西欧に対して持っているねじれた感情であろう。政治的、経済的にいつも「格上」の西欧に憧れる劣等感や、ポーランド人が西欧では対等に扱われていないという反発心、「もしポーランドが大国のままだったら、いまは違った現実があったかもしれない」という夢想などから、魅了されつつも気後れする、歓迎しつつも恐怖するといったアンビバレントな態度が生まれるのである。このような西欧に対するぎこちない感情には、日本人と共通する部分があるといえるが、地理的、文化的、人種的に距離が近い分、ポーランド人のそれはより複雑であろうことは想像に難くない。

どちらにせよ、ポーランド人の国を思う気持ちの強さは欧州でもよく知られており、「ポーランド人 = 愛国主義者」というイメージを持つ人も多い。グローバルなトレンドとはいえ、排他主義を掲げる極右勢力の台頭がポーランドでも近年著しいが、これは移住前の私の懸念材料の一つでもあった。

愛国的とまではいかずとも、一般的なポーランド人の歴史に対する関心や敬意の念は、日本人のそれとは比較にならないと感じる。例えば独立記念日の一一月一一日には毎年大規模なイベントが行われ、大勢のポーランド人が集まる。私が引っ越した二〇一八年は、ポーランドが一二三年ぶりに独立を回復した一九一八年から一〇〇周年目にあたっており、この年の独立記念日は、重い色をした雲の下で朝から寒風が吹きすさんでいるにもかかわらず、オールドタウンへと伸びるクラクフ郊外通りには大勢の老若男女が集っていた。独立記念日は、特に極右勢力にとっては最大のイベントなので、ポーランド在住の外国人は外出しないよう勧められることが多い。

ワルシャワの街を歩けば、道端や建物の壁に歴史の記された記念碑のようなプレートが置かれているのをよく目にする。花や鎮魂のランプがその前に添えられていることも珍しくなく、いつ見ても鮮やかな生花の色は、月日が流れてもこの国の人々が歴史とのつながりを失っていないことを思わせる。

個人的に印象深いのは、毎年八月一日午後五時の鎮魂の一分間である。この六〇秒間、往来の車やバス、トラム、そして人はすべて止まり、サイレンの音が街に鳴り響く。ナチス支配下のワルシャワで起きたワルシャワ蜂起は、兵士だけでなく市民をも巻き込んだ大規模なもので、死者数は二〇万人にのぼった。この戦いの開始時刻が一九四四年八月一日午後五時だったので、それに合わせてポーランドの人々はいまも鎮魂の祈りを捧げるのである。

私が東京からワルシャワに到着したのは二〇一八年の八月一日であった。この時は宿への移動などで忙しく、人が大勢集まると話を聞いていたオールドタウンへは行けなかったのだが、翌二〇一九年の八月一日は、ワルシャワ中央駅近くの大交差点をのぞむ小道で黙祷の時刻を迎えた。秒針が0を打つとサイレンが鳴って、前を歩くスーツの男性の歩みが止まった。目を遠くに向けると、交差点の真ん中で停まった車から男性が出てきて、この国のデモやパレードでよく使われる白と赤の煙が出る発煙筒を、空にむかって掲げるのが見えた。

一分間立ちつくしながら、私はこれとよく似た体験をしたことがある感覚を覚えていた。かつてどこかで、これよりももっと強烈で、もっと静寂に充ちた一分間を味わった気がしていた。それは東日本大震災から一年後の二〇一二年三月一一日であった。地震の発生から丸一年となるこの日の午後二時四六分、私は東京の家で家族とともに黙祷を捧げたのだが、その一分間はいま思い返しても不気味に思うほど、静寂に充ちた一分間であった。一〇秒ほどのサイレンのあと、よく晴れた日曜日の午後の喧騒は一瞬で静まり、真空につつまれたような完全な静けさが現れたのである。鳥の声も、風の音も、木々のせせらぎも、すべてが凍りついていた。

今年二〇二一年の三月一一日を、私は一〇年前と全く同じ場所で迎えた。一〇年前のあの日、私はリビングでNHKの国会中継をぼんやりと見ていたのだが、今年そこに映っていたのは、日本武道館で行われている追悼式の「東日本大震災犠牲者之霊」と書かれた白いひのき柱であった。あの日のこと、そしてこの一〇年間で自分の人生に起きたさまざまなことを振り返りながら、自分と家族がまだ健康で、日々の生活をまだ健やかにおくれていることに改めて感謝を深くしたが、それと同時に、この一〇年の節目に、日本では国民的な動きが何もなかったことに対する失望も禁じ得なかった。心のどこかで私は、二時四六分を迎えたらサイレンが鳴って、この歴史的出来事の記憶を人々のこころに喚起する機会が生み出されると思っていたのである。

少なくとも一年目はそれがあった。しかし一〇年目にはもう何もなかった。こういうところに私は、ポーランド人と日本人の歴史に対する決定的な態度の違いを見るのである。