日本人が英語の発音を苦手とする理由

8/April/2023 in Tokyo

英語の発音で苦労したり、海外に長く住む上級者でも発音に難があったり、あるいは教科書主体の英語教育を延々と続けていたりするのは、そもそも日本人が音を軽視しているためであろう。

そういったメンタリティーを日本人が持つようになった理由を書いていく。


英語の発音を日本人が苦手な理由としていつも挙げられるのは、次のようなものである。

「日本語に存在しない音があるから」

「日本語の音/発音がはるかに単純だから」

発音が苦手な理由を私が調べたのは10年ほど前のことだろう。

当時はロンドンで英語を勉強しており、「なぜ英語を話すことはこんなに難しいのか」という疑問が、日本語と英語の根本的な違いへと注意を導いたのである。

そして出てきた上記のような理由は、たしかにその通りだと思えるものであったが、私の抱いていた疑念に対する解としては何かが足りなかった。

こういったいわば表面的な言語の差異にではなく、もっと根源的なもの、もっと日本人の精神構造に染みついたなにかにこそ理由があると私はほぼ確信していた。

「精神構造」といったが、それは自分を含めた日本人の英語の発音のひどさを見るにつけ、そこには言語の違いとか各人の努力・才能以前に、そもそも日本人は「発音」や「音」に対して特異な態度を持っているのではなかろうかという疑念が浮かんでいたのである。

そうしたある日、「話すことに向いた言語と書くことに向いた言語があるとしたら、英語は間違いなく前者であり、日本語は後者である」と思うときがあった。

英語のインタビューなどを見ていると、目を引くのはセンテンスがとどこおりなく流れ出してくるそのスピードである。

それはぶつぶつと細切れの、「文章」以前の「単語」を虚空に向かって投げ出しているような日本語の話され方とは対照的だった。

日本語ははるかに淀んでいる。

日本語には根本的になめらかさが欠けている。

しかしこれらはすべて当時の私には単なる直感に過ぎなかった。

直感をたしかなものに変えるには裏付けが必要である。

そこでネットで調べたり、日本語を話せるイギリス人の友達に尋ねたり、帰国してからは日本語について書かれた本をいくつも読んでみたりした。

そこで知った英語と日本語の違い、あるいは日本語の特徴などは確かに「英語はスピーキング指向(話し言葉的)、日本語はライティング指向(書き言葉的)」というあの直感に沿うものではあったが、依然としてどれも決定的なものではなく、ましてや日本人の精神の汚濁について言及するものなどは皆無であった。

どれも冒頭に示したような表面をなでただけの理由付けにとどまり、私の渇きを癒すものでは到底なかった。

そういう中で先日手に取ったのが『日本の文字(石川九楊/ちくま新書)』である。

この本の中で私はようやく、日本人が英語の発音を苦手とする根源的な理由は10年前の直感通り、日本人の精神構造に染みついたものであることの証拠を見つけた。

以下、詳述する。


私たちが言葉を理解できるのは、言葉と言葉の間の差異を通してである。

英語ではアルファベットのわずか26文字しか使えるものがなく、この限られた文字数で差異を作り出すことにはすぐに限界が来る。

そこで音とアクセントが使われ、複雑な発音が生まれたのである。

一方で日本語には、平仮名・片仮名の50文字に加えて2000をはるかにこえる漢字があり、文字だけで十分差異を作り出すことができてしまう。

日本語の音が単純、つまり音への依存が少ないのはこれに依る。

「文字が多く音は少ない」という特徴は、「文字と意味は異なるが音は同じ」という同音異義語を大量に生んだ。

それでも音だけのやり取りとなる会話の中で、これを取り違えることなく理解できるのは、日本人は音を聞いて漢字を思い浮かべているためである。

そして実は日本人は同音異義語だけに限らず、会話の時は常に「書かれた状態」=「漢字」をイメージしている。

自己紹介のときを考えるとよくわかる。

「とくだこうたです」と名前だけを言われただけでは覚えにくいが、「『とく』は徳島の『徳』『だ』は田んぼの『田』『こうた』は光に、太郎の太です」などと教えられると格段に覚えやすくなる。

これは音と漢字が結びつくからだが、流れては消えてゆく音を捕捉して自分のなかに定着させるために、日本人は漢字を使っているのがよくわかる。

こういう環境に1000年以上かこまれて生きてきた日本人が、書き言葉への依存を深め、「書くこと」や「文字」への指向性を育むのは当然であるといえよう。

ここに漢字の持つある特徴を重ねあわせて考えると、日本人はほとんど音を軽視する精神構造を持っているといっていい。

「ある特徴」とは漢字の音が根本的にでたらめなことである。

英語と比べると一目瞭然となる。

たとえば「dog」を構成する「d」「o」「g」の個別の音は、「dog/ドッグ」というつなげた音からそれほど離れていない

英語ではそれぞれの文字に音が付着しているからである。

一方で漢字は文字に音が付着していないので、そのつづりからは絶対に音を推測できない。

「橋」を「はし」や「きょう」と読めるのは私たちがその音を知っているからであり、「橋」という文字から音を推測したのではない。

「橋」という文字を見てわかるのは、これが川にかかる建造物を指していることだけで、ここに音の情報は何もないのである。

たとえば「昨日」を「きのう」と読んでも「さくじつ」と読んでも、あるいは「理由」を「わけ」などと勝手な読み方をしても、意味がわかればどちらでもよいという漢字の音の曖昧さは至るところで見られる。

自分の国である「日本」という漢字の読み方からして、「にほん」と「にっぽん」のどちらなのか定まっていない。

漢字の音とは後付けであり、書くことが一義的、そして音は二義的、あるいはそれ以下なのである。

このような「書くこと」と「文字」に対する日本語の強い依存傾向、そして音に対する漢字のでたらめさを考え合わせると、それを1000年以上使っているヘビーユーザー=日本人は、そもそも音に対してほとんど関心がない、あるいは英語における音の重要性を根本的に理解できないといっていいだろう。


日本語は英語よりも「書き言葉的」であると確信し、「書くこと」に対する日本人の精神的な猛執と、その裏返しとしての音に対する蔑視がわかると、これまで疑問に思っていたいくつかの事柄の筋も通ってくる。

例えば以下のようなことである。

メロディや曲よりも歌詞を重視する日本人の傾向。

西洋人の手書きの文字が汚い理由。

筆跡に人格を見る日本人のものの見方。

感情を込めて話すことよりも、紙を見ながら間違わずに読むことを重視するスピーチ。

文字主体であるTwitterの高い人気。

リスニング/スピーキング主体の英語教育がまったく普及しない理由。

ボイスメッセージの利用者の少なさ。

そして日本人全般の病的なほど低いコミュニケーション能力と、ナマの人間とのやり取りを避ける病的な神経症。

なお冒頭に書いた、日本語の会話が排水溝の汚水のように淀み、なめらかさが欠如しているのは、日本人のコミュニケーションの方法に理由がある。

日本人は話をするとき、相手の反応をうかがいながら進める「共話」という方法をとる。

日本語では述語が最後にくるSOV型の文章になっていること、つまり話の途中で相手の反応に合わせて結論を変えられることもここには関係している。

ひとつの文章を最初から最後までとどこおりなく口から出すのではなく、何度も何度も途中で止めては文章をぶつ切りにし、相手からの反応を見ながら進めていくのである。

そのため日本人の会話を書き取ると、センテンスになっていないことがほとんどであり、そしてこれがまた西洋人との会話で相づちが少ないと、日本人が話しづらく感じる理由なのだった。

私は以前こんな文章を書いたことがある。

......時折り、日本在住の長い西洋人が日本語を上手に話しているのを見ることがあるが、そこに私が違和感を覚えるのは、彼らが日本語を自信満々に、堂々と胸を張って話している時である。おどおどと、もごもごと、ぼそぼそと、優柔不断に、文章を短く切りながら、絶えず相手の反応をちらちら窺いながら、臆病者のように話さないと、日本語はどうしても日本語という感じがしない。

これは共話という日本人のコミュニケーション方法を習得していないために起こるのである。