旅を意義深くするもの

11/December/2023 in Tokyo

*English ver

今年の1月にした京都旅行がいまだに濃密な体験として記憶に強く残っているのは、あの旅によって、日本国内の旅行と海外旅行のある決定的な違いに気がついてしまったからだろう。

これを端的に説明しているのが、次の三島由紀夫の一文である。

・・・旅は古い名どころや歌枕を抜きにしては考えられない。やはり旅には、実景そのものの美しさに加えるに、古典の夢や伝統の幻や生活の思い出などの、観念的な準備がいるのであって、それらの観念のヴェールをとおして見たときに、はじめて風景は完全になる。」 ―三島由紀夫『熊野路』(1964)

私の経験に則していうと、海外で有名な建物や芸術作品などを見ても、それが自分とつながっているという感覚を覚えることはない。

一方で、源頼朝の木像やら江戸時代の着物を着た女絵といったものを目にしたとき、私はなにか根本的な親しみを覚える。

それに対する具体的な知識がなくても、ただ「源頼朝」という名をどこかで耳にしたことがあるというだけで、親しみを感じる。

目の前のそれと自分とが、どこかで確かにつなっているという感覚を覚えるのである。

その感覚と比べると、海外で目にするものはどこかすべて薄っぺらく感じてしまう。

たとえば美しい景色を目にしたとき。

たしかに美しい。

しかしそれだけである。

奥行きを感じられない。

奥行きとは、つまり歴史である。

歴史とは、目の前の対象と私とが同じ根を共有しているという確信である。

私の中を奥深く潜っていったときに見える、私という存在を成り立たせている基礎の部分。

そのような根底部分を私と目の前のものが確かに共有しており、「私たち」は同じところから生じたものであるという絶対的な確信が、あの親しみの感覚を、あのつながりの感覚を生んでいる。

このようなつながりの欠如した海外の事物を見るときには、その感動はあくまでも表層にとどまるだけで、私のうち深くに浸潤してくることはないのである。