安倍元総理大臣と私 その1

26/July/2022

私がロンドンに移った直後の二〇一二年冬の社会的な出来事は、東京都知事が国政に戻り、安倍晋三が再び総理大臣に選ばれたことだった。私は政治に強い関心を向けていたわけではなかったが、それでも二〇一〇年前後は、尖閣諸島の問題が顕在化し、多くの人が「領土」や「国防」といったものに注意を引かれている時代だった。尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突する映像を見たときには、私も大きな衝撃を受けた。

折りしも当時の私は公務員試験の勉強で日本国憲法を学んでおり、そういったことも、この最高法規が内在している問題や、それを修正しようとする政治家たち、特にその筆頭ともいえる石原慎太郎と安倍晋三への関心を高めた。

ロンドンの語学学校の午後の授業には選択科目があって、私はそこで「Law(法律)」という明らかに人気のない科目を選んでいた。それは公務員試験で民法や労働法などいくつかの法律科目を勉強し、そこにある面白さを見つけていたからだった。Lawの担当はスーという大きく肥えた五〇歳前後のイギリス人で、彼女に「憲法の条文を一部修正するのではなく、丸ごと『棄憲』、あるいは『廃憲』して、条文のすべてを日本人の手で作り直すことを主張する日本の政治家がいる」というと、「もしそれが実現したら、ほんの一瞬でも日本に憲法の存在しない瞬間ができるの?」と大きな目を一層おおきく見開いて問われたことがあった。

いま二〇二二年から振りかえってみると、二〇一〇年前後のあの頃は、これから社会へ出ていく大学生にとってはまったく明るい時代ではなかったように思える。GDPを中国に抜かれ世界第二の地位から転落したことや海外へ留学する日本人の大幅な減少、「失われた二〇年」「内向き」「草食化」などの言葉の乱費。暗い、あるいは若者にとっては批判されているとしか感じられない雰囲気が濃厚だった。総理大臣が一年ごとに変わることも、日本という国の現在や将来の暗さを表す一つの、あるいは最大の、象徴的な出来事に見えていた。

そういう中で私は、安倍内閣が二〇一二年一二月に立ち上がり、二年、三年、四年と続き、二〇二〇年には最長政権にまでなり、それから数日後の八月下旬に退陣するまでの八年八ヶ月のほとんどを海外で過ごしていた。そのため、安倍内閣の経済政策によって大学生の就職が売り手市場になったとか、デフレを脱却した、あるいはロシアとの平和条約交渉が進んでいる、北方領土問題が解決するかもしれない、そして憲法改正を発議できる議席を両院ではじめて獲得したなどのニュースを、私はすべて海外で見たのである。海外で日本のニュースを見ることの危険は、日本に住む一般的な日本人以上にニュースが大きく、あるいは小さく見えたりすることだろう。特に情報を得るのがすべてネットからだと、そのニュースが日本に住む標準的な日本人にはどれくらい重要なものとして捉えられているのかの肌感覚がつかめない。そのため安倍晋三に関するニュースも、私は一般の日本人よりもやや大げさに受け取っていたところがないとは言えないだろう。しかしそれでも、私にとって安倍晋三はいつも何か「哀れ」という感情を引き起こす人だった。

祖父と父から引き継いだ遺志である憲法改正は、あと一歩まで迫っていたのに発議できなかった。ロシアとの問題も、いくたびも会談を重ねたのに前進しなかった。自分の政権で獲得し、自らブラジルに赴いて引き継いだ東京オリンピックは、コロナウィルスのために延期しなければならなかった。そして最長政権に到達したあとは、数日のうちに明らかな体調不良の中で辞職せざるを得なかった。そしてその後、体調が回復して、精力的に活動を始めた最中、突然命を絶たれてしまった。

七月八日、私は日本から時差マイナス七時間のセルビアにいた。朝、目を覚まして、意識のまだはっきりしない中で見たスクリーンには「安倍元首相 銃で撃たれ心肺停止」と書かれていた。「安倍元首相」「銃撃」「心肺停止」などという単語の羅列とありえない組み合わせは、強烈な違和感と衝撃を運んできた。

それから二時間ほどニュースをひたすら見ていた。日本時間で一六時ごろのことである。もうだめだろう、という絶望的な気持ちの中に、いや一命はとりとめるかもしれない、報道が大きく騒いでるだけで実際にはそこまでひどくないに違いないという、根拠のない希望にすがりたい思いが混じっていた。それでもあるところからニュースを見るのを止めて、仕事をはじめた。

仕事をはじめてすぐに気がついたのは、自分の中でふくらんでくる恐怖だった。数時間後にある仕事の休憩時、自分はニュースのページを開くだろう、その時までにはすべてに白黒がついてしまっているだろう、そして私はその結果を知ってしまうだろう・・・。

二時間が経っていた。恐怖と、そして真実を知りたい抑えがたい好奇心の中でインターネットのブラウザを開くと、開いたままになっていたニュース動画サイトのタブのタイトルがいつのまにか自動で更新されていて、「死去」という文字が見えてしまった。こうして私は、安倍晋三がこの世からいなくなったことを知ったのだった。

二〇二〇年八月、安倍晋三が辞意表明をしたとき、私はワルシャワに住んでいた。その時すでに、二年間住んだポーランドを去って日本に帰ることを感じてはいたが、そのような終わりの予感の中で飛び込んできた辞職の報は、予感が単なる予感ではなかったと伝える知らせのように響いてきた。私が海外生活を始めて以来、私の国を治め、私の国を率いていた人が去るのである。私の国の歴史に一幕が降りるのである。それは私個人の人生の「海外生活」という章にも幕を下ろす時が到来していることを告げる報であるとしか思えなかった。

それから二ヶ月後の一〇月下旬、私はポーランドを去って日本に帰ってきた。その時の計画では、四ヶ月後に日本からセルビアに移る予定であったが、コロナウィルスの感染状況は収まらず、そのうちワクチンという話も出てきて、さらには私個人の事情もあって、日本を出ることが一年半できなかった。ロンドンへ引っ越した二〇一二年九月以降、日本に何度も帰国したが、それでも滞在は長くて九ヶ月間で、一年半も日本にいたことはなかった。安倍晋三の辞職の報に触れて得た、私の海外生活の大きな章が終わった感覚は、あながち間違っていなかったのかもしれない。

二〇二二年六月一日、私は一年半ぶりに日本を出てセルビアに移った。再び海外生活が始まった。それから一ヶ月して飛び込んできた安倍晋三死去のニュース。私は再び、安倍晋三がもたらす大きな報を聞く時、自分はいつも海外にいるという事実に気がついた。

私はまだ、安倍晋三の死去ということが私の人生のなにを、私自身の一体なにを終わらせてしまったのかわからない。