海の思い出(ブリストル/イギリス)

21/March/2022

イギリスはブリストルを2014年6月に訪ねたときの記憶

高校時代に聴いていたCDに『SANDY』というものがあった。CDのジャケットには、ピストルを斜めにかまえた白人女が写っていたので、曲名の「SANDY」とは人の名前だと思った。しかし「SANDY」は砂の浜辺を表す形容詞としても使われる・・・、こんなことを石だらけのブリストルの浜辺に座りながら思い出した。

イングランド南部の海辺の街、ブリストルに来るのは二回目だった。一回目はロンドンに来て二ヶ月ほど経ったころ、語学学校の日本人の生徒たちと、白い絶壁がそそり立つセブンシスターズを見に行った時だった。あの日は秋の終わりの、天気が一年で一番不安定な時だったが、傘をさした記憶も曇り空の暗い空気に満ちていた記憶もない。むしろ日の光がブライトン駅の中に差し込んでいたシーンが頭の中に残っている。

それでもセブンシスターズ近くの、だだっ広い野原を海の方向に歩いている時は、黒い空の下で強い風が吹いていた確かな記憶がある。海辺につくと荒い波が浜を洗っていた。轟々と地響きのような音が間隔を置いて聞こえてくる。最初は何かわからなかったが、よく見てみると、波が引く時に浜辺の石を中に引き込んでいき、波が戻る時には、その石が浜辺の石に打ちつけられていた。何か神秘な響きがそこにはあって、私たちはしばらく黙ってそれを聴いていた。

二度目のブリストルは六月で、よく晴れていた。海を見るためだけに突然一人、電車に乗ってやって来たのだから、浜辺に座って寄せる波を眺めているだけで満足だった。浜辺で遊んでいる子供や、若者たちの存在もまったく邪魔ではなかった。むしろ、夏のバカンスの街の浜辺には、人が無邪気に海と戯れている光景が必要だった。

海を眺めていると、力を与えられる気がする。いつものように自分の内面と対話をしていても、それが浜辺で、ふと顔を上げると壁ではなくて、視界には収まり切らないほど横に広く奥に深い海の景色がひろがっていると、自分の内面に沈み込むエネルギーよりも外に拡張するエネルギーの方が何倍も強いことに気付かされる。沈むスピードは徐々に落ちていき、ある地点からは引き上げられていき、しまいには広大な海に溶かされ、私の憂鬱は希釈されて消えていく。これが私にとっての海の効用だった。