by axxxm
31/January/2022
本稿はメット・フィルムスクールについて書いた3つのエッセーの3つ目にあたり、前の2つは次のとおりである。
• その1:メット・フィルムスクールについて
• その2:メット・フィルムスクールのカリキュラム
1年間のコースの2期目、Making Short Film(MSF)の目標はショートフィルムの制作で、そのプリ・プロダクションは2月下旬から始まり、撮影は4月に予定されていた。撮影日としてクラスメイト1人当たりに2日間が割り振られており、各自がディレクティングをする日以外は、クラスメイトの撮影現場でファーストADやランナーなどをする。
私の撮影日は4月28日と29日の2日間だった。撮影場所として使う場所は、クラスメイトがしていたように、民泊サービスのAirBnBで探して見つけた。脚本の設定に合う家をAirBnBのサイト上の写真で探して、家主に「撮影に使いたい」と直接コンタクトを取るのである。
私はクラスメイトと対して打ち解けていなかったので、撮影という典型的なチームワークをすることに不安があった。しかも自分の撮影日には、監督として全体の指揮を取らなければいけないのである。私のストレスの大半は、思った通りに映画が作れるかよりも、そういったチームワークに関係するものがほとんどを占めていた。しかし1日目の撮影の後には、私は心地よい充実感を胸に撮影場所のChiswickから家に帰っていた。一仕事をやり終えた手応えが気持ちよかった。
そこには2つの理由があった。まず英語という他言語を使って、日本人ではない俳優に演技指導をし、日本人ではないクルー(クラスメイト)に指揮をすること。そして、俳優の演技やカメラの位置、映像の色使い、小物の位置など細々としたことに、監督として大小無数の判断を下していくこと。特に後者には非常なつかれを覚えた。しかしその疲労感は気持ちよかった。
この頃の私は、NAとの別れの余波にまだ揺り動かされて、心晴れないことも多かったが、1日目の撮影後にはそんな気持ちは消えてなくなっていた。心配だったチームワークも、1日目はむしろ人と一緒になにかを作り上げるチームワークの楽しさの端緒を掴んだような気がした。
しかし2日目は、逆にチームワークの難しさを見た思いが強くなった。この日は、チームの全員が緊張感を失っているように見えた。ファーストADは眠そうで、一番の協力者であるDoPもさっさと撮影を終わらせて、早く帰りたいと思っているのが明らかだった。そしてチームの全員の気持ちが、この2人の空気に引きずられていた。その結果、1日目にあったような協力して作り上げるという空気は撮影場所にはなく、「これは単なる仕事だ、さっさと切り上げて帰ろう」という空気が支配的になってしまっていた。難易度の高いシーンの撮影を1日目にすべて終わらせてしまっていたことも、チームの緊張感を失わせる原因となっていた。一旦変わってしまったチームの空気を変えることは難しかった。それは英語という言語ではなく、コミュニケーションの問題だった。
撮影の後には、ポスト・プロダクションが始まった。撮影した大量の映像素材を再び見直すのは苦痛だった。クラスメイトの中には、撮ったそばから何度も見返しては「いいシーンが撮れた」と喜びに浸っている人もいたが、私には映像素材というものが持つ粗さや、偶然性に頼ったある適当さ、そして自分の力不足ばかりが目について仕方がなかった。
5月の1ヶ月間をすべて編集に費やして完成させたショートフィルムは、月末に学校へと提出し、私はポーランドに旅行に行くのだが、その後も私は個人的に細部に修正を加えていて、自分の中でこの作品の編集作業が最終的に終わった時にはもう7月も中旬になっていた。この1本目のショートフィルムに比べて、6月中旬からプリ・プロダクションの始まった2本目にして卒業制作となる『decadent reverie』は、制作の難易度も、そして作品の完成度も、数段上のものとなっていた。
『Clairvoyance』から続く2作目にして卒業制作にあたる『decadent reverie』の作業は、6月下旬、脚本の原案作りから始まった。当時の日記を読み返してみると、2月以降、脚本の種となるアイディア(ログライン)が何個も書き残してあった。「死」「責任」「クラシック」「美」「純粋」「若さ」などの私がいつも魅せられていたキーワードと、それを何とか1つの物語としてまとめ上げようとしていた痕跡が日記には残っていた。
この卒業制作の脚本作りで一番最初に思い浮かんでいたのは、「innocent」というアイディアだった。これは6月初旬のポーランド旅行で念願の「退廃」を味わい、その先にあったもの、つまり、初夏の晴れわたる天候と平和な景色を味わって、その結果、魂が浄化されたように感じたところから出てきたアイディアだった。しかし「innocent」や「美」などの耳障りのいいアイディアがいくら浮かんでも、それを1つの物語の中に埋め込み、溶かし込んでいくには、また別の能力が必要になるのである。さらにこれは学校の課題として作るものなので、映画の基本的な構成であるセットアップ(Setup)、コンフリクト(Conflict)、リゾリューション(Resolution)という3要素を必ず含んでいなければいけなかった。
ストーリーの始まる導入部分である「セットアップ」はいいとしても、私を含め多くの学生が苦労していたのはConflictだった。「innocent」という作り手の最も表現したいものを何の調理もせずに観客に提示したら、それはレストランで土のついた野菜をそのまま客に出すようなものである。頭をひねって、その素材を活かすためにはどのような調理法が適当かを考えることは、つまりストーリーにアップとダウンの起伏を与えて、観客を刺激することである。これがConflictであり、その結果アイディアは、オーディエンスに強く印象付けられるのである。
一体、「innocent」を強めるConflictとはなんであろうかと、長い間考えていた。私はフィルムスクールに入る前から表現したいコンセプトをいくつか持っていた。そして私にとって映画というのはそれらを表現するための手段として見ていた。しかし入学後に知ったのは、アイディアは単なるアイディアでしかなく、それを脚本なり、映像なり、あるいは音楽家なら音に、画家なら色にと、なんらかのフォームへと発展させることが必須ということだった。そしてこのプロセスこそが、フィルムスクールで私が一番苦労し、そして一番楽しんだものである。私は一時、「生と死」だとか「空っぽな老年」だとかのコンセプトを出すだけの仕事はないのかと想像することもあった。
第1作ですでに「死」や「責任」といったアイディアは使っていたので、今回はそれ以外の「老と若の対立」などのコンセプトを織り込みたかった。そこで何とかストーリらしきものを作って、脚本担当の講師とのミィーティングに持っていった。Drewというカナダ出身のこの講師と1対1のミィーティングを何度か持ったが、その何回目かで彼は「高野山に行ったことがある」という話を始めた。Drewは日本人の小説家も知っているというので、私が村上の本はとても読めたものではない、こんなものが世界で読まれているのは理解できない、と言うと、彼は笑いながら「脚本を読んでみて、君は村上が嫌いだと思ったよ」と言った。書きかけの、しかも第2言語で書かれたつたない脚本から、そこまで読み取ってくれたことが私はとても嬉しかった。
ある時、2、3週間ほどまったく脚本が進まない時があった。気分転換に、電車に乗ってイングランド南部の海辺の街、ブリストルへ向かった。
高校時代に聴いていたCDに『SANDY』というものがあった。CDのジャケットには、ピストルを斜めにかまえた白人女が写っていたので、曲名の「SANDY」とは人の名前だと思った。しかし「SANDY」は砂の浜辺を表す形容詞としても使われる・・・、こんなことを石だらけのブリストルの浜辺に座りながら思い出した。
ブリストルに来るのは2回目だった。1回目はロンドンに来て2ヶ月ほど経ったころ、語学学校の日本人の生徒たちと、白い絶壁がそそり立つセブンシスターズを見に行った時だった。あの日は秋の終わりの、天気が1年で一番不安定な時だったが、傘をさした記憶も曇り空の暗い空気に満ちていた記憶もない。むしろ日の光がブライトン駅の中に差し込んでいたシーンが頭の中に残っている。
それでもセブンシスターズ近くの、だだっ広い野原を海の方向に歩いている時は、黒い空の下で強い風が吹いていた確かな記憶がある。海辺につくと荒い波が浜を洗っていた。轟々と地響きのような音が間隔を置いて聞こえてくる。最初は何かわからなかったが、よく見てみると、波が引く時に浜辺の石を中に引き込んでいき、波が戻る時には、その石が浜辺の石に打ちつけられていた。何か神秘な響きがそこにはあって、私たちはしばらく黙ってそれを聴いていた。
気分転換にやってきた6月のブリストルはよく晴れていた。海を見るためだけに突然1人、電車に乗ってやって来たのだから、浜辺に座って寄せる波を眺めているだけで満足だった。浜辺で遊んでいる子供や、若者たちの存在もまったく邪魔ではなかった。むしろ、夏のバカンスの街の浜辺には、人が無邪気に海と戯れている光景が必要だった。
海を眺めていると、力を与えられる気がする。いつものように自分の内面と対話をしていても、それが浜辺で、ふと顔を上げると壁ではなくて、視界には収まり切らないほど横に広く奥に深い海の景色がひろがっていると、自分の内面に沈み込むエネルギーよりも外に拡張するエネルギーの方が何倍も強いことに気付かされる。沈むスピードは徐々に落ちていき、ある地点からは引き上げられていき、しまいには広大な海に溶かされ、私の憂鬱は希釈されて消えていく。これが私にとっての海の効用だった。
しかしブリストルでの気分転換のあとも脚本は進まなかった。見せられる進捗が何も無いので、Drewと会うのも気が重くなっていた。ある日の授業では、脚本がまったく進んでいないことを点をダイレクトに指摘されたこともあった。しかし、その突破口は突然開いた。その日のことは今もある種の感動を持って思い出せる。
7月下旬のその日、私はVictoria駅近くのカフェでバンクーバーに住む友達に長いメールを書いていた。内容は最近考えていることや身の回りのことなど他愛無いものだったが、メールを書き終わると、突然脚本のConflictとなるべき設定とストーリーが浮かんできた。それは「降って沸いた」というような軽いものではなく、これまで噴火をこらえていた火山がその圧力に耐えきれず爆発し、ついに溶岩が流れ出してきたような感覚だった。それまで長い間停滞して書き進められなかった脚本のいくつかの部分を、わずか1分足らずで書き終えることができてしまった。後から振り返ると、あれは友達に長いメールを書くという作業が、自分の中のものを外に出し、文字へと定着させる作業の準備運動として作用しており、その結果として頭の中の種々の観念をなめらかに文字へと変換できた気がした。
私は湧いてきたアイディアの反道徳性、反社会性に興奮を抑えきれなかった。高ぶる気持ち落ち着かせながら家に帰り、その日から2、3日、思い浮かんだコンフリクトを映画のシーンとして書き上げる作業に没頭した。こうして私の第2作『decadent reverie』の脚本は完成する。長い停滞がたった数秒のひらめきによって解消されたこの体験は、不思議であると同時に創作活動の醍醐味を見た思いだった。
脚本が完成した後の作業はロケーション探しだった。前作の撮影時、DoP(Director of Photography)はあまり関与せず、ロケーション探しも、その下見も、俳優探しも、私がほぼ1人で行っていた。しかし今回のDoP、トルコ人のフェルダンは、プリ・プロダクションの作業に積極的に関わってきてくれたので、一緒に行動することが多くなった。
私たちには似ているところがあった。性格的な意味ではなく、クラスや学校での立ち位置が似ていたのである。彼も私もヨーロッパ人ではなく、そして2人とも英語に問題があり、クラスメイトからどこか対等には扱われていないところがあった。そのような意味で、私たちが組むことになるのは自然だった。
ロケ探しは前回同様、民泊サービスAirBnBを使った。南はバタシーから、北はスイスコテージ、ヘンドンまでフェルダンと一緒に回った。映画撮影に使いたいと言えば普通は断られるだろうと思っていたが、意外に家主たちは乗り気で、むしろ「この家は君の映画の撮影場所にぴったりだ」と売り込まれることさえあった。バタシーのフラットを訪ねた時のこと、家主と約束した場所でフェルダンと私が待っていると、ロンドン名物の箱のような黒塗りのタクシーが停まり、男が中から出てきた。白人のイギリス人。身長は180センチ前後、年齢は40歳中盤、上着の代わりにチョッキを着ていて、下は黒のズボンと革靴。ロンドンの土曜日の朝にしては妙な服装だったが、その家主は昨日夜遅くまで遊んでいたこと、約束の時間に遅れたことの詫びを、西欧人らしくカジュアルに、全然申し訳なさそうに言った。右手には新聞が見えた。どの会社の新聞かはわからなかったが、男の身なりや雰囲気、そして案内されたフラットの豪華さを思うと、フィナンシャルタイムズ以外は不釣り合いな気がした。
男のフラットには、古いアンティークの置物や大判の写真集が置かれ、壁には現代アートの絵がいくつかかかっていた。広くはないが、明らかに高級な場所だった。この家主もまた、この家が撮影にふさわしいと思うことを話し始めたが、私はこの男の遊び人のような雰囲気に魅せられていた。若者とは違う、金をかけた遊びをしていることは明らかだった。この時、男の家のベッドでは一夜を過ごした女がまだ寝ていたであろう。男はまったく偉ぶったところを見せず、大して金のなさそうな映画学校の学生に接してくれていた。
脚本書きやロケーション探しなどのプリ・プロダクションをしている間、私には常に金銭的不安があった。この解決の唯一の方法は、親に送金を頼むことである。しかし当然、何の罪悪感もなく頼めるものではなかった。そうはいっても結局は頼むのだが、あの苦い味はもう味わいたく無いものである。
ロケーションは最終的にクイーンズウェイQueesnway駅近くのフラットになった。そこに1人で住む40代中盤の、弁護士をしているという細身の女家主は、ロンドン・フィルムスクールの短期コースを受講しているといっていた。そういったところから、私たちの撮影にも興味を持ってくれたようだった。
ロケ探し、俳優探し、ストーリーボード作成、その他大小の作業をしていると、すぐに撮影日になった。割り当てられた撮影日は1人当たり3日間で、私の撮影日は8月30日、9月10日、11日だった。1日目と2日目が空いているのは、私のロケーション探しが難航したからだった。1日目にはロケーションとは関係ない野外での撮影で、メット・フィルムスクールの裏手にあるWalpole Parkを使った。本来は市役所などから撮影許可を取らないといけないはずだが、その手続きの手間が面倒くさく、何もしていなかったので、撮影はゲリラ的に行なった。野外シーンの撮影は短かく、昼前には終わっていた。
この頃、アクトンのバス停などで人探しのチラシをよく見かけた。手作りだとわかるそのチラシの上部には「MISSING」と大きく書かれ、その下に15歳ぐらいの女の子の笑顔の写真があった。このチラシを見た時に私が最初に思ったのは、年頃の少女が母親と喧嘩をして、家出少女にでもなったのだろうということだった。
チラシを何度か見かけた後にふと思い立って調べてみると、この行方不明の少女をめぐる事件は全国ニュースになっていた。すでに容疑者もわかっていて、警察はその男の行方を追っているところだという。同じ頃、神戸で行方不明になっていた少女と思われる遺体が見つかったというニュースを見かけた。アクトンの行方不明の少女と神戸の殺害された少女。女性、特に少女というのは、毎度毎度男の犠牲になるものだと、同情のような、他人事のような奇妙な気分が湧いてきた。
9月十日の撮影日の前夜は、不思議なほど落ち着いていた。翌日と翌々日の撮影が楽しみでもあり、緊張感もあるが、一番強かったのは早く終わって欲しいという気持ちだった。過去1ヶ月半ほどのストレスの多い時間が早く終わって欲しかった。翌日の撮影のための準備はすべて済んでおり、最後にすべきことは早めにベッドに行くことだけだった。予測できる必然的な失敗は排除され、偶然の失敗、つまりその時を生きてみないとわからない失敗だけしか残っていなかった。
ライトを消してベッドに入る。つらつらと考えてみると、2年前の明日は、語学学校に初めて登校した日だったのを思い出した。あの日、2年後に本当に映画撮影をしているなんて思ってもいなかった。日付上の偶然の一致は、自分が確かに前に進んでいることを示していた。
朝が来た。私は責任者として、Queesnwayのロケ地に一番最初に着いていなければいけなかった。ウエスト・アクトン駅からクイーンズウェイ駅まではセントラルラインで1本だが、持っていく様々な荷物がスーツケース1杯分あったのでバスで向かうことにした。
普段乗らない早朝のバスは空いていた。9月中旬にさしかかる時期はロンドンではもう夏の終わりで、窓の景色は朝靄でかすんでいた。撮影1日目と2日目、私は同じ時刻に出るバスに乗ったが、2日間とも同じ少女を見かけた。最初私の注意を引いたのは、彼女が制服を着ていたからだった。ロンドンで、日本のように制服を着て登校している子供は珍しかった。年歳は15歳くらいだろうか。身長はすでに165センチほどあり、日本人の感覚でいえばすでに大人に見える。しかし体の細さ、そして唇に確かな幼さが見えた。
白人の10代と20代には身体つきに明らかな違いがある。男女とも、身長に対して肉付きが追いついていないのか、全身の姿が細く見えることが多い。これにヨーロッパの十代の装飾の少ないシンプルな服装と、身長の高さが合わさって、全身の細さがさらに際立つ。
さて、撮影は2日間ともクルー全員が緊張感を途切れさせることなく進んだ。しかし1日はとても長く感じた。英語で指示を出すことや無数の判断をしていくことも大変だったが、それ以上に家主との折衝や食事の準備、撮影後の片付けなどといった、創作活動とはまったく関係ないところからくるストレスは非常に大きく、私はプロデューサー業には向いていないことを悟った。2日目も同じようにあらゆる瑣事に襲われたが、なんとか2日間の撮影を終えると、脚本の書き始めから数えて2ヶ月間の不安やストレスや焦りといったごちゃごちゃした感情のガラクタから解放されて、ようやくひと段落つくことができた。その夜、家に戻ると、ハウスメイトのポーランド人がくれたポーランド産の甘い黒ビールで1人祝杯をあげた。ビールを口に含んで、そういえばこの映画の最初のアイディアは、3ヶ月前のポーランド旅行で得たのを思い出した。
撮影を終えて、私は1つのことを後悔していた。それはDoPのフェルダンに対する私の態度だった。私は撮影中、彼をぞんざいに扱う場面が何度かあり、そのことがずっと胸に引っかかっていたのである。撮影中は、時間的制約のある中、他の人の気持ちにかまっていられないほどやるべきことが多くあった。また「自分の作品の撮影」というところで、他の人のことなんてかまっていられないという自分を正当化しようとしていたが、同時に、自分は好ましくない態度を他人に、特に近しい関係にあるフェルダンに示していると思うことが何度かあった。撮影後、彼は特に何かを言ってくることはなかったが、私の方には彼に対する罪悪感が募っていた。私は彼に謝ってみたが、彼は「別に気にするな」とだけ言って話を逸らした。
私の悪い癖は、ここで既に相手が許している、もしくはもうこの件には触れないで欲しいという意思表示で許すと言っているのに関わらず、自分の大仰な謝罪と等しい大きさの大仰な許しを得られないと本当に許された気がしないために、自分の気持ちと等しい大きさの許しの気持ちが見えるまで、何度も謝罪の態度を示してしまうことである。これは相手からしたら、思い出したくないことを何度も思い返すことを強制されるので不快でしかないだろう。私は心のどこかでこのことに気がついていながらも、自分勝手な動機による謝罪で彼の傷を深める真似をしていた。
Practical Filmmakingコースは9月末に終わる予定だったが、何らかの事情で延長されており、10月になっても生徒はまだ編集作業をしていた。しかしフェルダンは、ずいぶん前にチケットを手配していたので、コースの終了を待たずに十月初旬にはトルコへ帰ることになっていた。私はヒースロー空港まで見送りに行くと言ったが、「空港まで来られると別れがドラマチックになるから、いつものように学校で別れれば十分だよ」と言って断られた。私は内心、私の真の動機が友情に立脚するのではなく、罪滅ぼしのための行為であることを見透かされた気がしていた。
9月中旬の私の誕生日にはスコットランドで独立の賛否を問う住民投票があった。なぜかわからないが強く興味が引かれたニュースだった。結果が反対多数だったとしても外国人の私には別に安堵の気持ちはなく、ただイギリス国内では大きな出来事として扱われている雰囲気だけが強く伝わってきた。
10月になって最初の日、バス停で行方不明のチラシに写っていたあの少女の遺体が見つかったというニュースを見かけた。同じ頃にはクラスメイトから、首をつった男の死体がメット・フィルムスクールから2キロほど離れた公園で見つかったという話を耳にする。クラスメイトはその公園の裏手に住んでいたのである。ニュースを見てみると、行方不明だった少女は14歳のAlice Grossという名で、イーリング北部の川の中から遺棄された状態で見つかったこと、そしてBoston Monor Parkで首を吊っていたのは、容疑者として警察が行方を追っていたラトビア国籍の男で、過去に犯罪歴があったこと、また今回の警察の捜査は2005年のロンドン同時テロ以降で最大規模であることなどが書かれていた。
この件が大事件として扱われる前の、まだ家族の手作りのチラシを使った、西ロンドンの一角の少女の小さな行方不明として扱われていた夏の終わりから、1ヶ月ほどの時を経て、このような全国ニュースの形で、規模を拡大して再び目の前に現れたことに私は奇妙な感覚を覚えていた。同時に、この事件がなぜここまでの大規模な捜査の対象になっていたのかを疑問に思う気持ちもあった。少女が男に誘拐される、殺害される、というのは、当然起きるべきことではないが、しかし現実には今回の件に限らず、イギリス国内では毎年何十件も起きているのではないだろうか。なぜ今回の事件がこんなにも注目を集めているのか私にはわからなかった。この頃、普段はほどんと行くことのないEaling Broadway駅より西、Hanwell駅まで通じる通りを歩いていると、道の真ん中に立つ高さ5メートルほどの時計台の根本には、弔いの黄色の花束が一面にたむけられているのが見えた。
撮影後の編集作業は、9月中旬から十月中旬までの1ヶ月間ほど続いた。途中で何度か担当の講師Brenに映像を見せると、ある時、「Lyrical」という言葉をかけてくれた。作品は想像していたものより何倍も重厚な、そしてクラシカルな雰囲気の濃いものになっていた。その要因は、話の展開が遅くて登場人物の激しい動きがないこと、そして主人公が高齢の存在感ある俳優であることだった。あるピアニストに依頼した音楽を映像と合わせると、クオリティはさらに数段高まった気がした。
主演俳優のスティーブとの一番最初の打ち合わせは、雨がちらつく8月初旬、レスタースクエアからコベントガーデンに向かう途中のカフェ・ネロの2階であった。私は俳優探しを急いでおり、混雑したカフェは、俳優と会って、セリフをいくつか言ってもらうにはまったく適当でなかったが、ここしかお互いの都合のつく場所がなかった。
70歳に近いスティーブは俳優業とともに、タクシーの運転手もしているという。どういう話のきっかけだったかは思い出せないが、彼は抗うつ剤を飲んでいると言った時があった。それは唐突で奇異に響くと同時に、たいした抵抗もなく私の耳に入ってきた。つまり70歳近い高齢の老人が抗うつ剤を飲んでいるという不思議さと、それを特に何事もないように打ち明ける白人らしいフランクさ・・・。
後になってわかったが、クイーンズウェイでの撮影現場ではスティーブの存在が大きかった。彼が具体的に何かを言ったわけでも、何かしたわけでもない。しかしクルーも俳優も全員が20代の若者の中に、1人はるかに年上の人間がいることは、彼の存在そのものが若者の軽はずみを止める重石の役割を持っていた。撮影後、スティーブは私のディレクティングを褒めるメッセージを送ってくれた。編集作業後、作品が予想よりも私好みの重厚なものに仕上がったのを見て、フェルダンやスティーブ、そして撮影に関わったクルーのことが思い出されて、1人ではできなかったことがチームワークで可能になったこと、そしてチームワークには1人の力を何倍にも増幅させる力があることがよくわかった。
このような作品の完成の喜びとは全く別の次元、つまり「私」と「作品」の関係性の上では、作品を完成させた直後、私は深い絶望に塗れた感覚に襲われた。自分の中にあってなんとか見まいとしていた私のドロドロしたものが、作品という形で外に出され、それと直面させられることとは、それまで見えなかった私の悪の全容が見ることでもあった。私は何か自分の病魔にさらに蝕まれた感覚を覚えていた。
脚本の執筆時から編集が終わるまでのころ、私はあるバンドのファーストアルバムをよく聴いていた。バンドのファーストアルバムからは、荒々しい衝動性と若さのうごめきが実によく感じられる。それはファーストアルバム以降のアルバムが決して持ちえない、ファーストアルバムだけの特権的要素である。音の質、声の質、演奏の質から安っぽいジャケット写真に至るまで、すべての瑕瑾がマイナスとしてではなくプラスとして作用する特別な磁場を、ファーストアルバムはまとっているのである。これこそ若者の生の輝きであり、「innocent」だった。
このアルバムの中には村上龍の『限りなく透明に近いブルー』にインスパイアされた曲があった。ここには、本を読んで得た衝撃を、その衝撃を減ずることなく音に変換し、曲としてまとめあげたという感触があった。そこには若者の生々しい衝動性がしっかりとパックされていた。