by axxxm
25/January/2022
本稿はメット・フィルムスクールについて書いた3つのエッセーの2つ目にあたり、前後は次のとおりである。
• その1:メット・フィルムスクールについて
• その3:メット・フィルムスクールで学んだこと
映画の制作プロセスは大きく次の3つから成る。プリ・プロダクション、プロダクション、そしてポスト・プロダクションである。
映画制作という言葉で一般に思い浮かぶ、カメラの前で俳優が演技をしている光景は「プロダクション」のプロセスで、これは実は3つのプロセスの内の1つに過ぎない。プロダクション、つまり「撮影」の前には、「撮影準備」としてのプリ・プロダクションがあり、そしてプロダクションの後には、撮影した映像素材を脚本の意図通りに並べたり、音楽や特殊効果などを加えたりするポスト・プロダクションと呼ばれる「編集」の工程がある。私がフィルムスクールに通い出して発見したのは、実は撮影、つまりプロダクションにかかる時間が一番少なく、その前段階であるプリ・プロダクションと、編集をするポスト・プロダクションの方が多くの時間を必要とすることだった。各プロセスの作業を少し紹介する。
プリ・プロダクション(Pre-Production)とは、その言葉どおり撮影前の準備であり、ここには脚本を書く作業も入ってくる。脚本の完成までにもいくつかのステップがあり、その最初に来るのは、脚本として書くべきアイディアを探るプロセスである。ここでは、脚本の起承転結を100文字ほどの一文で表したログラインと呼ばれるものが使われる。これについてくわしくは後ほど触れる。
脚本が完成したあとは、その文字の連なりを現実世界の中に移しかえる仲立ちを探す必要がある。つまり小道具探し、撮影場所探し、俳優探しに始まり、撮影する場面をシーンごとに分割して言葉で説明したショットリスト、それを視覚的にしたストーリーボード、撮影におけるカメラの位置や俳優の立ち位置などを鳥瞰図で示したフロアボード、撮影日ごとのスケジュールの書かれたコールシートの作成、といった机上の作業に加えて、撮影時の食事の手配や撮影機材のロジスティクスなど、プリ・プロダクションですべき作業は非常に多い。
次のプロダクション(Production)のプロセスは、「Shooting」や「Filmming」とも呼ばれ、監督が指示をして、俳優がカメラの前で演技をするという、一般の人が想像する映画制作の場面はここである。撮影現場では、プリ・プロダクションでどれだけ細かく計画をしていても、何らかのトラブルはかならず起きる。撮影スケジュールの遅延、機械の故障、撮影クルーの体調不良などは実によくある。
準備、撮影ときて、最後のポスト・プロダクション(Post-Production)は映像の編集である。ここは基本的にコンピューターの前での作業になるので、撮影時のようなスケジュールに追われる感覚や、予想外のことが起きる可能性は心配しなくていいが、それでも負担の大きなプロセスである。手元にあるバラバラの映像素材に流れを与え、型をつけて、観客が理解できるように並べていく。しかしここではじめて、撮影すべきシーンがもっとあったことに気づくことも少なくない。そうなった時、撮り直しができるのは予算が潤沢にある場合だけで、脚本やストーリー自体を、手元の映像素材に合うよう変更するケースが多い。
DoPはDirector of Photographyの略で、Cinematographerとも呼ばれる。私はメット・フィルムスクールに行くまで、DoPの役割の大きさをまったく知らなかったのだが、先に説明した映画制作の3つのプロセスを通して、DoPは監督の片腕といってよいほど緊密に協力して動くことになる。なおDoPは「撮影監督」と日本語では訳されるが、日本の映画撮影の現場で撮影監督がDoPと同じほどの地位にあるのか私は知らないので、ここで書くのは私の通ったフィルムスクールのあるイギリス、そして広くはヨーロッパの映画制作の話である。
DoPの担当はカメラと照明に関することである。多種多様なカメラとレンズの無数の組み合わせの中から、撮影シーンの意図にあったものを選ぶテクニカルな側面と、ライトを使って微妙な光の効果を生み出していくクリエイティブな側面がDoPの仕事にはあり、「職人芸」という日本風の言葉が似合う役割といえる。
メット・フィルムスクールのPractical Filmmakingコースは、大きく監督志望のDirectingプログラムと、DoPプログラムに分かれていた。コースの始まりにはどちらのプログラムの生徒も同じ授業を受けるが、あるところからそれぞれの専門的な授業に分かれていく。そして2、3期目のショートフィルムの制作実習で、再び顔を合わせて協力する流れになっていた。
DoPがどのような授業を受けていたのかは知らないが、私はディレクティングプログラムの方が生徒への負担が大きいと感じていた。2、3期目のショートフィルムの制作で、ディレクティングコースの学生は、脚本書き、撮影場所探し、撮影現場における食事の世話などの雑事から、撮影場所の持ち主との交渉、撮影にかかる費用負担、そして映像の編集作業まで、いわばプロデューサー、脚本家、監督、編集者、ランナーといった肩書きをすべて担うことになるからである。
私が好きだったヨーロッパの映画では、監督が脚本家も兼ねていることが普通だった。歌手が自分の曲の歌詞を自ら書くように、監督が映画の脚本も書くことは、作品における一貫性を保つ上で当然だと考えていたので、脚本家兼監督という役回りはむしろ私の望んでいたものだった。しかし、1人が2役以上も担うことの負担も大きく、それを特に感じたのは編集作業と映画完成後である。
私にとって撮影した映像素材を見返すことは苦痛だった。そこでは撮影現場で達成できなかったことや技術の未熟さ、自分の意志の弱さといった粗ばかりが目につくからである。それを何とかカモフラージュするように編集作業を進めていくのは、気持ちのいいものではなかった。
そして編集プロセスが終わっても、それは映画が完成したという話であって、次にそれをどのように人に見てもらうのか、つまりマーケティングやプロモーションの話が出てくる。実際の映画制作では、当然ここは専門の担当者や広告会社が行うわけだが、フィルムスクールの学生や自主制作の映画などでは、ここも監督が行うことになる。しかし私の経験では、監督は映画をとにもかくにも完成させるので精一杯であり、そして完成までもっていけたことに十分満足してしまって、その先にプロモーション活動などをして宣伝する気力は残っていない。
なお、プロデューサーと監督の違いだが、プロデューサーは映画制作の全プロセスにおける責任者である。脚本執筆や撮影での演技指導、編集作業などの制作の実作業に直接関わることはないが、それらすべてを計画し、そして資金の目処をつけるのはプロデューサーの仕事である。映画によってはエクゼクティブ・プロデューサーといって、プロデューサーよりも一段上のポジションが設けられることもある。メット・フィルムスクールでの実習では、「If you see what I mean」という言葉が口ぐせのブレンという指導教員が、生徒の映画のエクゼクティブ・プロデューサーを担っていた。
私の通った1年制のPractical Filmmakingコースは3つの期間に分かれていた。2013年9月から翌年2月までが基礎を学ぶ1期目で、脚本の構造や書くためのテクニック、そして俳優への演技指導の方法などを学ぶ。1期目の最後には、「The Reveal」という小さなショートフォルムを作る実習があった。
「Reveal」とは「隠されていたことを明らかにする」という意味だが、これは映画のストーリの構成方法に由来する名前である。
映画のストーリーは大きく3つのパートから成り立っている。最初がセットアップで、いつ、どこで、誰が、何をしているのかといったことを、観客に紹介する映画の導入部分である。次がコンフリクトで、ここが物語の展開していく部分である。なんらかのイベントが起きて、物語の登場人物の内面や、あるいは周りの環境に「摩擦」が生じるのである。「ターニングポイント」といってもいい。そして最後がリゾリューションで、ここでコンフリクトが解決し、物語は終幕をむかえる。
このようなストーリーの構成に従っていない映画もたくさんあるが、メット・フィルムスクールではまずこの物語の定石に沿ったものを作ることが求められた。私を含め多くの学生が悩んでいたのは、コンフリクトの部分である。これが無い物語は、いわば起伏のない一本道を進むようなもので、観客には退屈に感じられる。一方でコンフリクトが強ければ強いほど、最後のリゾリューションも印象が強まるので、授業ではコンフリクトをよりわかりやすく、よりドラマチックに、より視覚的にするように求められることが多かった。
2月から5月末までの2期目はMaking Short Film(MSF)と名付けられており、その名の通り、ショートフィルムを1本作ることが最終目標である。3月下旬までの最初の1ヶ月半ほどは脚本作りにあてられており、ここで出てきたのがログライン(Log line)と呼ばれるものだった。これは一文100文字程度で示したストーリーの要約で、そこには上記のセットアップ、コンフリクト、リゾリューションのすべてが盛り込まれている必要があった。ログラインを何本も書き、その中から最もポテンシャルがあるものを、脚本へと発展させるのである。
ログラインの次はシノプシス(Synopsis)を書く。これはストーリーの概略である。ストーリーや登場人物のプロフィール、物語の舞台の設定などが、ログラインよりも具体的に書かれており、分量はA4一枚ほどである。ここまできて、ようやく脚本執筆にとりかかる。
映画制作の全プロセスの中で、ログラインを含めた脚本を描いているステージが私には一番面白かった。なんといっても1人で進めていけるのが楽だったのである。しかし映画制作において、文章を書く脚本の作業が一番楽しいというのは危険であろう。映画とは、映像で物語を語るビジュアル・ストーリーテリングがその最大の特徴である。そこでは言葉によるストーリーテリングとは違う特徴があり、当然異なる能力と寛容が要求される。
「寛容」と書いたのは、私は映像を使った伝達方法にある不安を覚えるからである。映像の方が、受け手である観客の解釈の幅が大きく、制作者の意図通りに解釈されない可能性があると感じられる。一方で文字による伝達は、受け手の解釈の幅を制限できる分、制作者の意図をいっそう厳密に伝えることができると感じられる。
これは一般的な通説とは逆の考え方であろう。一般には、映像による伝達は事実をそのまま示すので、受け手が想像力を働かせる余地は小さく、一方で言葉による伝達は、受け手の解釈の幅が大きいとされるからである。私はこのような一般的な考え方の妥当性を認めつつも、結局作り手が言葉を起点として考え始めたのか、それとも映像(もしくは絵)を起点にして考え始めたのかという、主観的な始まりの違いによると思っている。私は物語を考える時、いつも言葉を起点にして考え、最初から最後まで言葉に頼って制作をしていたので、それをビジュアルイメージとして伝える段になると、言葉での表現時にはあった厳密さが大きく損なわれる感覚を覚えた。当然、こういう姿勢は映画制作者にふさわしいとはいえないであろう。映画制作者は、兎にも角にも文字による抽象の世界よりも映像の具体的世界をより信じ、映像のビジュアルイメージを信頼して制作を進めていかなければならないからである。
このように考えてくると、私には映像制作の瑕疵が目につくようになってきた。文章表現と比べた時、私の体験した映像表現には3つの不満があった。1つは「Collectivity」で、ある映画に対して評価があった時、その評価の受け手は監督、俳優、脚本家など1人に特定することができない。文章表現は通常ソロ活動なので、評価の受け手も1人であり、作品に対する貢献がわかりやすい。2つ目が「Contingency」である。映像制作には意志の力で完成度を高められる側面とともに、天気や気温といった自然現象、チームメンバーとの相性や撮影現場の雰囲気といった、作品の完成度に対して影響を与える変数が非常に多く、よいものができたとしても、それは人間の意志の結果できたというよりも、偶然の産物としてできたような感覚を覚える。カメラを闇雲にたくさんまわして、後でその中から一番出来のいいものを選ぶという、横着な方法を取ることもできてしまう。最後に「Completenss」である。どんなに短い映像でも、それ自体が1つのフォームとして閉じており、あとから好きなように手を加えることはできない。映像編集とは、映像の入ったいくつもの閉じたカプセルを並べ替えたり形を変えてみたりすることだが、カプセルの中身を好きなように改変することはできない。例えばあるショットに影が映り込んでいた時、それを完全に映像から取り除くには、再び取り直しをするしかないのである。これが文章表現であれば、いくらでも変更を加えることができる。
最後の3期目は、6月中旬から10月中旬までのShort Film Big Screen(SFBS)である。ここでは2期目とほぼ同じことをしながら、知識や技術を高めて卒業制作をするのが目標だった。次でくわしく触れる。