by axxxm
21/January/2022
本稿はメット・フィルムスクールについて書いた3つのエッセーの1つ目にあたり、続きは次のとおりである。
• その2:メット・フィルムスクールのカリキュラム
• その3:メット・フィルムスクールで学んだこと
東京からロンドンに戻って2日後、私はメット・フィルムスクールに入学した。メット・フィルムスクールは、ロンドン中心部から西へ20分ほど行ったイーリング地区にある。ここにはイーリング・スタジオという世界で最も古い撮影スタジオがあり、メット・フィルムスクールはそれと同じ敷地に建つ映画学校であることを大きな売りとしていた。
私が映画学校に求めていたのは、実技中心であること、そしてコースの期間が1年間であることだった。イギリスの大学の多くでフィルムメイキングコースは提供されていたが、そのほとんどは理論が中心で、学べることは映画の歴史や分析手法だった。そのため映画を学ぶ場所を選ぶにあたっては、大学などのアカデミックな機関ではなく、日本でいえば専門学校のようにひとつの分野に特化した実技を中心とする学校、つまりフィルムスクールが私の希望に合っていたのである。私は日本の4年制大学を卒業しており、学士号の学位はすでにもっていたので、2つ目の学位を得ることには興味がなかった。映画業界という実力主義の世界で、学位の数が重要でないことくらいは知っていた。
ロンドンのフィルムスクールを調べてみると、London Film School、National Film & Television School、London Film Academy、そしてメット・フィルムスクールの4つの学校が特に目に入った。その中でも、London Film SchoolとNational Film & Television Schoolは、長い歴史と実績を持つフィルムスクールとして、業界でも名の知られた学校であることは素人目にも明らかだった。同時にこの2つは、経験のない初心者ではなく、ある程度の実務経験と実績のある人がさらにスキルを伸ばすために通うところで、私が入れる見込みがないことも明らかだった。残ったのはLondon Film Academyとメット・フィルムスクールだったが、ウェブサイトを見た第一印象で、私の中ではメット・フィルムスクールが決まっていた。
どちらの学校も設立は2000年初頭で、私が入学した2013年は設立から10年程度しかたっていない新興の学校だったが、私のような初心者の目には、メット・フィルムスクールの方があらゆる面で魅力的に見えた。歴史ある撮影スタジオに建つという立地、週末の短期コースから3年制の学士(BA)コース、大学院レベル(MA)のコースまで提供している守備範囲の広さ、そしてフィルムスクールだけでなく、MetFilm ProductionやMetFilm Salesといった商業用映画制作の部門も併設していることなど、組織の大きさや盤石さ、教育の質、そして卒業後の将来性も、メット・フィルムスクールの方が確実に見えたのである。卒業して数年経ついま振り返っても、この見立ては概ね間違っていなかったと思う。
メット・フィルムスクールのことはイギリスへ留学する前から調べており、語学学校が始まって1ヶ月ほどしたころ、ロンドン西部のイーリングまで出かけていったことがある。学校の様子を外から見てみたかっただけなので、学校に連絡はしていなかった。調べた住所に行ってみると、車が雑然と停まる広い駐車場があって、フィルムスクールと思われる建物はなにも見えなかった。駐車場の入り口にはなぜか検問所があって、そこで車や人を管理していたので、私は引き返してフィルムスクールと思われる住所の周りを回ってみることにした。南側に行ってみると、赤く染まったツツジが外塀に立つ家が並んでいた。そこから学校の様子が少しでも見えないかと思ってやってきたのだが、建物の影すら見えなかった。
ここを再び訪れたのは、語学学校を終えて、英語検定試験IELTSで規定のスコア6.5を取り、そして志望動機書を提出した後の面接の時だった。指定された住所にはやはり駐車場しか見えなかったが、学校は実はその奥にあった。敷地を、今も現役の撮影所イーリング・スタジオと共有しているので、駐車場の入り口には検問所があるのだった。面接に来たことを伝えて駐車場へ入ると、右手にはところどころ白い塗装が剥げて下地ののぞいた、古い小ぶりな体育館のような建物が数棟ならんでいるのが見えた。これが噂に聞くイーリング・スタジオなのかと思いながら前方に進むと、白色の壁にガラスをはめこんだモダンな建物が見えた。これこそメット・フィルムスクールの校舎だった。
ステファンという30歳前後のイギリス人男性と話した時間は、「面談」という堅苦しいものではなく、外国らしくカジュアルに進んで、20分ほどで終わった。私に映画制作の経験がないことや、英語能力もそこまで高くないことを考慮してくれたのか、私を試すような質問や返答に困るような場面も特になく、時間はさらさらと屈折なく流れて、面談は終わってしまった。数日後に入学を許可するメールが届いたが、ふと面談のことを思い出して、この学校はとにかく金さえ出してくれる学生であれば、全員受け入れるのではないだろうかという気がした。
2013年9月30日のフィルムスクール初日は、どこの学校でもそうであるように、オリエンテーションで始まった。しかしひとつ特徴的だったのは、カメラを使って撮影をする短い授業があったことだった。そういえば1日目から映画用カメラを使って撮影をすることが、ウェブサイトの目立つ場所に書かれていた。そのことを思い出すと、こうやって1日目から撮影をすることは、実技重視であることを、ことさらに強調しているような気もした。
私のコースは1年制のPractical Filmmaking(One Year Cert HE programmes)で、3年制の学士コースと最初の1年目を共有していた。つまり同じ時に入学した生徒のうち、3年制のコースの学生は卒業までさらに2年かかるのである。しかし彼らには、一般の大学卒業と同じ資格である学士号が与えられる。
当時たまに読んでいたイギリスの大学院に留学した日本人のブログには、クラスメイトの9割が中国からの留学生だと、あまり嬉しそうではないトーンで書かれていた。しかしフィルムスクールというある種特殊な学校はそうではなく、生徒の半分以上はイギリス人で、他はオランダ人やフランス人などのEU出身者で占められていた。自分が周囲から浮いているような感覚は初日からあり、この感覚を強めたのは私以外の学生のほぼ全員が白人であるという外見的なことだったが、それと同時に彼らが英語を第一言語、あるいはほぼネイティブと遜色ないレベルで扱えるという語学力の壁だった。
求められていた語学試験のレベルをクリアしているとはいえ、私の英語力がまだ大幅に不足していることは明らかだった。座学を中心とする一般の大学や大学院とは違って、フィルムスクールではそこまで高度な英語力は求められないだろうと私はたかをくくっていたのだが、これがどれだけ甘い考えであったのかはすぐに分かった。
1日目のオリエンテーション兼撮影の翌日からは授業が始まった。1部屋に10人ほどの生徒が座って講師の話を聞くという、どこの学校でも見られる普通のスタイルのレクチャーだった。
レクチャーに特定の教科書や教材はなく、講師のフリースタイルで進むものがほとんどだった。映画、あるいはテレビ制作の現場で働いている現役の人たちが、黒ペンでA1サイズの白紙にキーワードを話しながら書いていく。そして合間合間に学生に小さな課題を与え、それを互いに発表したり批評したりするのだが、私には英語ネイティブの講師の話に追いつくことすらおぼつかなかった。
机上に電子辞書を出して時折り使っていると、隣に座る生徒が物珍しそうにのぞいてきては、この機械は何かと聞いてきた。応えると、日本人しか使っていないこの小さなパソコンのようなものが実は辞書であることに納得したような反応が見えたが、自分の英語力への劣等感が深まるのを覚えた。
確かにフィルムスクールでは、たとえば中国人からの留学生が大半を占めていて、自分が一体イギリスに留学しているのかと疑問に思うことはなかった。またフィルムスクールでは、大量の英語の文献を素早く読んで処理していくような能力や、書き言葉でしか使われない難しい英単語を知っている必要もなかった。しかしその反面、学生はほぼ英語のネイティブスピーカーで、授業もそのネイティブの英語力を基準に進むので、英語能力の中でも特にスピーキングとリスニング能力が求められ、特に口語表現にはよく慣れている必要があった。
9月末から始まった1年間のPractical Filmmakingコースのカリキュラムは、大きく3つの期間に分かれていた。9月末から翌年2月まで、小さなストーリー作りやカメラ操作などの基礎実習をするのが1期目。2月頭に1週間の冬休みをはさんだ後は、ひとつ目のショートフィルムを作る2期目が始まり、4月初旬までスクリプトのアイディア出し、脚本制作、俳優や撮影場所探しがあって、4、5月に撮影、6月は編集作業にあてられていた。6月末からは最後の3期目が始まり、ふたつ目のショートフィルム作りがある。6月から8月初めにかけて脚本作り、俳優探し、ロケーション・ハンティングなどがあって、8月中旬からは1ヶ月間の撮影、そして編集が続く。編集が済むと、フィルムスクールの用意したロンドン中心部の映画館で、生徒の作った作品の上映会が開かれ、それが1年制コースの生徒の卒業式も兼ねていた。
当時はそう思わなかったが、今になってじっくり振り返ってみると、基礎実習の1期目が終わった2月以降は、中身がよく詰まった、実にプラクティカルなコースであったように感じられる。具体的な授業の中身は後ほど書いていく。