ミンスク

6/April/2021

ベラルーシはミンスクを2019年6月に訪ねたときの記憶

ベラルーシへ旅立ったのは六月初旬の朝だった。数日前から気温が上昇しており、この日も朝から暑気が厳しく、空港の待合室には湿った重い空気が漂っていて、念のためにと持ってきた薄手のコートはとても着ていられなかった。しかし私の胸は軽やかな気分で充ちていた。それまでの三ヶ月ほど無心で没頭していたことに前日までで区切りをつけ、やるべきことをやり終えた清々しさと充実感に包まれてバケーションに出ること。このような感覚は長らく味わっていなかった。

一時間半遅れで飛び立った飛行機の窓からは、似たような形のマンションやビルばかり並ぶ憂鬱な景色が見えて、ワルシャワがほんの三〇年前までは共産主義の街であったことを改めて思い起こす。一時間ほどして見えてきたベラルーシの地は、山も丘も見えずひたすらに平らで、目の届く先までずっと緑の森と湿地帯しか見えない。視線を遮(さえぎ)る山というものがない景色は、日本人の私をいつも不安にする。緑だけが地平線の果てまで延々と広がるこういう景色を見ていたら、どこまでも世界が広がっているような感覚を覚えるであろう。

ミンスクは大変清潔な街で、同胞ウクライナの首都キエフに色濃くあったざらざらした質感や、ダイナミックなエネルギーのうごめきは感じられず、冬の日の武家屋敷の玄関のような掃(は)き清められた落ち着きに支配されていた。妙にひっそりしていて、都(みやこ)にあるべき華やかさや騒々しさ、まとまりのなさも見られない。清潔で人工的な未来都市を実現したようなこの街こそ、共産主義というものが根本的に誤っていたことの証(あかし)のように見える。人間の身体のいかがわしい部位が人目を集めるように、魅力的な都市になるには猥雑で汚濁に満ちたいかがわしい所が必ず要るのである。

しかしまた別の角度から見ると、この街にはベラルーシ人の素朴で派手を嫌う、そして平和を好む従順な性格がよく現れてもいるようにも見えるのであった。ワルシャワからミンスクに着いて、空港内のイスで小休止していると、横にいた若い男と一瞬目が合った。「タクシー」、と男は消え入りそうな声でいう。私はそこでようやく、先ほどから隣に座っていたこの男が観光客相手のタクシー運転手であり、私に声をかける機会を待っていたことを知ったのだが、その押しの弱い姿勢を実に好ましく思った。外国人観光客を見つけると、我先にとやってきては声をかけてくる勇ましいキエフの空港の運転手たちとは正反対であった。

青空に漲(みなぎ)る日差しから逃れる影ひとつない一本道を、黙々と二〇分ほど歩くと大祖国戦争史国立博物館に着いた。一九三九年から六年続いたこの戦争には冬も春も秋もあったが、私にはどうしても夏の出来事であったようにしか思えないのは、日本の終戦記念日が夏の盛りに位置しているからであろう。首都とは思えないほど広々とした緑地の高台に建つこの博物館は、同じ第二次大戦を扱うキエフの大祖国戦争博物館とは比較にならないほど展示の充実したところで、白黒の映像でしか見ることのない七〇年以上前の悲劇が、生々しい色彩でもって迫ってくる。

展示の終わり近くで日本の名が見えた。あの戦争時、ベラルーシの地に日本の軍はいなかったが、ベラルーシはロシア、つまり連合国側に属していたので、この博物館において日本は「敵国」として言及されているのであった。思えば敵国として扱われることは当然なのであるが、それまでの展示のほぼすべてがナチス・ドイツとの戦いに焦点をあて、その残虐非道を告発するものであったので、それを目にする私は無意識に当事者ではない第三者として、つまり「安全な傍観者」としての立ち位置から、加害者には憤りを、被害者には同情を注いでいたのであった。しかし展示の最終盤に至って実は私の国も、つまり「私」も、この博物館の扱いの上では傍観者どころかまごうことなき当事者、しかも告発を受けるべき「敵」であることを唐突に知らされたのである。その通知はあまりに突然に私の目の前に差し出されたので、そこには冷水を浴びせられたような驚きがあり、敵として扱われる苦さがあった。