読書の効用

10/February/2018 in Tokyo

アムステルダムに住んでいた頃、「自分は全く進歩していないのではないか」という思いに囚われることが時折あった。

「20代前半の頃の方が、今よりももっとオトナで、より成熟した考えを持っていた」とか「数年前の自分は、周りの人よりも精神的に数歩前にいた気がしていたが、今となっては大幅に後塵を拝している気がする」とかいう気持ちを時折感じていた。

たまに人と深い話になって、人生とか人間に対する自分の認識を開陳する時も、20代前半の頃に得た認識をなぜか繰り返している自分がいて、そこに疑問を感じていた。

時が経って、歳を、経験を重ねているはずなのに、なぜかアップデートされていない、そして深まっていない認識。

当時はそれがなぜだかわからなかった。

しかし、アムステルダムから東京に戻り、時間的余裕にかまけて本を乱読する日々を送る中で、ふと気付いた。

読書、つまり「本」という刺激を受けて思索するという時間から、ここ数年来遠ざかっていたことに。

思索する時間は豊富にあったが、その思索を刺激するもの(=本)が当時の生活には欠けていたのだ。

インターネットからも膨大な情報が得られるが、そしてそこから得られる情報を刺激として使える人も大勢いるのだろうが、自分にとってはネットで満たされないのは以下の2点。

スクリーンで読まなければならない点。および、情報のまとまりという点。

毎回毎回こう厳かに思っているわけではないが、読書とはやはり一つの出会いであり、一つの体験なのだと思う。

つまり一つ一つが個別的でユニークであること。

本でいえば、そこに書かれている内容はもとより、それを伝える媒体、すなわち紙の質感や本のサイズ、文字の書体、におい......、すべて本ごとにより異なる。

自分の場合、パソコン、またはタブレットのスクリーンで読む行為は、こういうフィジカルな感覚が欠けていてどうも読んでいる気がしない。

「情報のまとまり」というのは、ネット上の情報は読みやすく、手短なので、わかりやすく手軽ではあるが、一個のテーマについて書かれた本と比較すると、どうしても表層的な傾きがあるということ。

またリンクが貼られているために、一つのページに集中できず、すぐに注意が散漫になってしまう。

(この点に関して『〈インターネット〉の次に来るもの』には、「スクリーンで読まれるもの(Screening)は、リンクとリンクの網の目がゆるく結合したところに位置する浮遊したものであり、そしてリンクはほどけやすいため、読者の注意が散漫になりやすい。対して紙で読まれるもの(Reading)は、冊子として閉じられたもの、固定したもの、リンクとリンクの間にあるものではないので、より没入しやすい」とある。)

あともう一つ盲点だったのが、書店の存在。

帰国以来、書店には週に3回ほど行くが、棚に並んでる本を無意識に見ている中で得られる情報の豊富さに今回ようやく気がついた。

そこで得られる、政治・経済・文化の動きや、今注目を集めているトピック等の社会の情報は、時代の流れを知るために必須のものだと気が付いた。

振り返ってみると、アムステルダムでは書店なんて月に一回も行っていなかった。

加えて、なぜかヨーロッパの本屋は、圧倒的に物語、つまり小説に力を入れていて、本屋の一番目立つ棚には小説が並んだりしていた。これも彼の地の伝統なのだろう。

数年前、初めて外国に移住する前の自分は本ばかり読んでいて、そういう自分が好きではなかった。

当時の読書でも得るものがたくさんあったが、どうしても有り余る時間を読書によって埋めているという感覚が消えなかったのだ。

なので海外に移住して本を読まない(もしくは読みたくても読めない)という生活になってみると、そこにある種の喜びを感じている自分もいた。

ようやく読書という呪縛が解けて、次の一歩を踏み出したような。

しかし今回の帰国で、皮肉にも自分の海外生活で欠けていたのは読書という刺激であることに気付いた。

読書によって、過去数年間の海外での体験や経験が、ある一定の秩序を持って位置付けられ、整理されている感覚もある。

また、読書がくれるシンプルな喜び、つまり新しく何かを知ること、「学び」の喜びにも気がつけた。

帰国来数ヶ月、私の外部的には何も起きておらず、外目には停滞と見えるだろうけれど、私の内部は次の出立に向けてどんどん豊かになっている。