価値観が変わることについて

13/February/2018 in Tokyo

価値観が変わるというのは、喜ばしいことでもあり、恐ろしいことでもある。

それまでは「当たり前」だと認識していたことが、価値観の変化を境に、「当たり前」だともはや認識できなくなり、むしろ「変化させるべき対象」だと感じられ始める。

これまでは、「味方」とも認識する必要もないくらい当たり前に「味方」だったものが、自分の人生を阻害する「敵」に思えてくる。

こういう価値観の変化の残酷な面に思い至ると、自分とは違う価値観で生きている人に対して、「こういう価値観もある」とか「こういう生き方もある」とか教えたり、話したりすることは、果たして良いことなのか疑問に思えてくる。

もちろん吹き込む人は100%の善意で、その人のためになると思ってやっているので、大体の場合において好意的に受け止めてもらえるだろう。

しかし中には新しい価値観を教えて貰ったことにより、それまで満ち足りて幸福だと思っていたものを毀損されたと感じる人もいるかもしれない。

幸福とはどこまでいっても主観的なもので、他の人から与えられるものでも、外部から強制されるべきものでもない。

幸福とは自分の中から湧き上がってくるもので、その湧き上がりを感じるもの。

しかし今そこに疑問が付された。

「また別の幸福の形もある」。

「あっちの幸福の方が『より良い』幸福だ」。

「あっちの幸福の方が『より人間的に正しい』幸福だ」。

一旦自分の幸福に疑問を抱くと、その疑問は止まらず「本当にこの幸福は正しいのだろうか?」「本当にこの幸福で、自分は最上の幸せを感じられているのだろうか?」「他にももっと別の幸福があるのではなかろうか?」と疑うことを止められなくなる可能性がある。

ある価値観の中で満ち足りて生きている人に、他の種類の幸福を教えることは、悪魔のささやきにも思える。猜疑の地獄に陥れることのようにも思える。

これはどこか、アフリカ奥地の「未開社会」に、西欧の「先進社会」の人間がやってきて、「コレがあると生活が豊かになる」とか「コレを使えばこんなこともできる」とかのようにおせっかいを焼いて、結果的にその社会にあった「良きもの」を破壊する構図に似ている。

例えば、ネットの通じていない村に「ネットは便利だ」「ネットは必須だ」「ネットで生活は豊かになる」云々とネットの敷設を進めれば、それは確かにたくさんの利益をそこの住人にもたらすだろう。

しかし同時に、地域のつながりを破壊し、人と人の距離を拡大し、今の先進諸国のように、つながりに餓えた孤独で苦しむ人を大量に生み出すかもしれない。

新しい価値観を人に教えることのこのような残虐な一面に思い至ると、どうしても「新しい知識を得る」とか「新しい体験をする」とかいう、ポジティブなコンテクストで語られがちなこれらのことを手放しで賛美するのに、ある種のためらいを感じるようになる。