人のこころへのアプローチ方法

13/February/2018 in Tokyo

ポジティブとネガティブ。

オプティミスティックとペシミスティック。

明るい話と暗い話。

私はいつも後者のタイプの方に惹かれてきた。

なぜなら、そちらの方が、その語り手の内面、人間性により触れられるような気がしていたからだ。

しかしある時から、このアプローチ方法に染み付いているある卑しさが鼻に付くようになってきた。

つまりLet him/her talk about a negative storyというのは、果たして「正しい」のだろうか、ということ。

人の内面へのアプローチ方法として、どこか歪んだところはないのかということ。

人間は誰も彼も程度の差こそあれ不幸自慢が好きなのは知っているものの、しかしあえてネガティブな領域に属する話、その人の苦悩や苦しみを話させるように誘導したり、しむけたりすることのある卑しさ。そういう話を、明るい話よりも胸ときめかせて聞いている自分の拭いがたいペシミズムに疲れを覚え始めた。

世俗の価値観に染まった考え方かもしれないが、人とのコミュニケーションでの話題は、基本的に明るいものであった方がいいと私は思っているし、全体のコミュニケーションのうち、明るい話が10%、暗い話が90%というのでは、どこか不健康なものを感じる。

同時に、話し手にとってはその苦悩は個別的で耐え難いもの(=絶対的な苦悩)であっても、聞き手の私としては「以前どこかで聞いたことある話だな」と感じたり、「あなたのその苦しみより、私の知人のAさんの苦しみの方が大きい」といったように、相対的な価値観の中に置きながら聞いている自分にも気づき始めた。

しかしこれは非常に不遜な態度だ。

なぜなら苦悩とはどこまでいっても個別的でユニークなものであるはずで、「Aさんの苦悩はBさんの苦悩よりも深刻だ/高等だ/悲惨だetc..」と本人以外の誰かが決めることはできない。

痛みや苦しみは、本人とっては絶対的なものなのだ。

他の人の苦悩との相対的なスケールの中に置かれるべきものではない。

さて、ある時知人に「なぜネガティブな話を聞いた時の方が、ポジティブな話よりも、その人の内面により触れたと感じられたり、その人の人間性がより分かったと思ったり、距離がより近くなったと感ずるのだろう」と伺ってみた。

一人は「ポジティブな話は聞き手にそこまで反応が要求されない。基本的には、単なる聞き手となって、必要とあればその喜びを肯定してあげればいい。対してネガティブな話の場合は、聞き手にはより複雑な反応、単なる聞き手以上のものが要求される。その結果、お互いのコミュニケーションがより深いレベルで行われて、距離が縮まったと感じるのでは?」とのこと。

別の知人は「ポジティブな事柄、明るい事柄に対する人の反応は、みんな概ね似ている。一方で、ネガティブな事柄に対しては、その反応は人それぞれ違って、個性が出る。反応の仕方、対処の方法がまったく違う。なのでネガティブな話を聞いた時の方が、よりその人の人間性が伝わるのでは?」とのこと。

両方の意見とも正しいと思う。

ネガティブな話をどこかで望んでいる自分がいたとしても、ただネガティブなだけの話はやはりうんざりする。

その人の心の強さを垣間見せてくれる種類の話、つまり「~というネガティブなことがあった。でもこうやって乗り越えた」とか「まだ乗り越えられていないけれど、~という方向でその苦しみを終わらせようとしてる」といったような、前向きなオチ。

ネガティブな出来事があっても、それをどれくらいの深さで感じているか、というところに、その人の感性とか心の繊細さが現れる。

そういう心のSensitivityと、それをコントロールする心のStrength。

Sensitivity & Strengthというのは昨夏以来、自分の中での一つのテーマとなっている。