人生に対する認識とは

13/February/2018 in Tokyo

「人生に対する自分の認識が数年間変わってないこと」に疑問を感じていたと以前書きました。

さて、それでは当時の自分は、どのような「認識」を人生というものに持っていたのでしょうか。

数年前、少なくとも5年前の自分は「生きる、とは自分への理解を深めていくプロセスで、人生の意味とは自分への理解を深めていくこと」だと考えていまして、人にもそう語っていました。

「自分」とか「自己」とかいうものには不思議な特徴があって、何よりも近くにあるはずのものなのに、ほとんど理解できていないもの、もしくは理解することが難しいものです。

人間が自分のことを深く理解していて、そしてその全てをコントロールできるならば、「思わず~する」とか「(後から振り返ってみて)なぜ~したのか不思議に思う」ということは本来ありえないはずです。

「自分」が確実にコントロールされているのならば、「自分」のすべての発言・行動は制御可能、そして予見可能なはず。

でも実際はそうではありません。

「自分」とは自分であるはずなのに、知らないところがたくさん、山のようにあります。

自分のことをある程度は客観視できることからもわかるように、「自分」は「主体」と「客体」の2つにわかれています。

デカルトの「我思う、故に我あり」なんて、まさにそれです。

数年前の自分は、主体の「自分」が客体の「自分」への理解をより深め、その2つの間の距離を縮めていくことこそが人生の意味であり、人間の人生そのものであると考えていたのです。

つまり外への理解ではなく、内への理解を深めていくこと。

そして外の出来事、つまり自分以外の人やこの世界で起きる出来事、そしてそこからもたらされる経験・認識といったものはすべて、自分の内への理解を深める手助けだと考えていました。

これは、今よりももっとペシミスティックなものに惹かれていた自分の感覚に非常に沿うものでした。

なぜなら「なぜ人とコミュにケーションを取るのか?」という質問に「その人のことを理解するため」という、道徳的な、思いやりのあるヒューマニスティックな答えではなく、「自分のことを理解するため」という、冷めた、冷徹な、消極的とも聞こえる答えを差し出すことができるからです。

「なぜ新しい体験をするのか?」という質問に対しても同じで、「未知の世界を知るため」ではなく、「自分のことを知るため」と、常に「自分」を中心とした、どこか反社会的な答えになります。

私の根本的な考え方は「人間とは基本的に自己中心的で、自分のことしか考えていない。だからこそ、人のことを慮ったり、自己犠牲的行為、自分のエゴを抑えた行為や行動規範が社会では広く推奨されている」というものです。

そのような意味で、この「人生の意味とは自分のことを理解すること」という考え方は、人間の本性をエゴイズムに置く考えなのでしょう。

このような認識は5年前に抱いたものですが、以後ほとんど変化がないことに去年気づいて愕然とした、ということは以前書きました。

5年の間に様々な出会いがあり、体験があり、経験を重ねたはずなのに、この人生の認識にほとんど変化がないところに、自分の人生の停滞を感じたのです。

個人的には、この認識が今後深まったり、変わったりすることを望んでいます。

でも逆から言うと、色々なことが起きたこの5年間変わらなかったということは、それだけこの認識が(少なくとも自分の中では)真実に近い、ということなのかもしれません。