人間の再生、復活、転生の忌まわしさ

9/August/2018 in Warsaw

死んだら全て終わりだとか、死ぬまで生きることを人間の使命と考えたりするのは卑しい。

人生を単に何かを為すための時間と考えることも卑しい。

これは資本主義に侵された思考法のようにも思える。

Capitalismにおいて、もっとも価値があるものは「時」だ。

時こそが利潤を生むのだ。

翻って「できるだけ長生きしたい」という考え方には、「時間をかければ価値(=利潤)が生まれる」という資本主義の思考法が透けて見える。


さて、生まれ変わりとか輪廻転生、再生というのは、「一回性の存在」に対する侮辱以外の何ものでもない。

私たちは私たち自身が一回性の存在であり、その根本原理からして一回性の存在、つまりmortalなものしか愛せない。

私たちは「死すべきもの」、つまり「mortalなもの」としか親しくできず、価値を見いだすことができない。

人間が不老不死を実現した時、この世の終わりが到来するだろう。

誰が「永久に生き続けるもの」を愛でることができようか。

"Eternity" is an enemy for humanity.

When "etrnaity" exists, "love" does not exist.

ここで思い出すのは、三島由紀夫「奔馬」の次の一節。

ひとたび人間の再生の可能性がほのめかされると、この世のもっとも切実なかなしみも、たちまちそのまことらしさとみずみずしさを喪って、枯葉のように落ち散るのが感じられた。それは何か、悲しみによる人間の気品が本質的に損なわれるのを見る忌わしさにつながっていた。」-三島由紀夫『奔馬』

さて話は飛んで、イエス ・キリストは死んで3日後に復活したというが、そのようなことを重要な教義として据えているキリスト教の卑しさは救い難いと感じる。

いわんや、そんな宗教が愛を説いているとは。

キリスト教が自殺を認めていないのも納得がいく。

長生きするとか、一度死んだ者が復活するとか、そんなことが愛なのだろうか。

人間はmortal、一回性の存在、つまり「儚い」からこそ、自分と同じ「儚さ」を共有する者と物を、愛することができるのではないのだろうか。