by axxxm
9/May/2024 in Tokyo
フランソーズ・サガン『かなしみよ こんにちは』には、朝吹登水子訳と河野万里子訳がある。
最初に河野訳、次に朝吹訳と両方に目を通したが、もし誰かに『かなしみよ こんにちは』を薦めるとすれば、私は河野万里子訳しか選ばない。
朝吹訳が出たのは1955年、河野訳は2009年と、大きな時代の開きがある。
私は昭和の文学をよく読むので、当時の言葉遣いにそこまで違和感を感じないはずであるが。朝吹訳は非常に読みにくかった。
もし『かなしみよ こんにちは』を朝吹訳から読んでいたら、私はこのすばらしい作品と出会う喜びを完全に逸していたであろう。
そのことを思うと、河野訳を最初に手に取った偶然、さらには河野訳という訳が存在している幸運にも感謝せずにはいられないほどである。
旧訳と新訳を一読してすぐに気がつく違いは、この小さな、しかし主人公に対するイメージには大きな影響を与える違いである。
「私」と「わたし」。
旧訳では全編「私」だが、新訳では「わたし」となっている。
明らかにひらがな表記の方が、17歳の主人公の幼さとノンシャランな雰囲気が伝わってくる。
そしてこの「私」という主語が、旧訳は原文を重視しているためかくどいほどに使われている。
たとえば次の短い文には、「私」が3回も出てくるのである。
「私は彼女に理があって、私はほかの人たちの意思によって動物のような生活をし、私は哀れで弱いのだと思った。(旧訳p.35)」
これが新訳だと次のようになっている。
「彼女は正しい、とわたしは思った。わたしは動物みたいに生きている。相手しだいで。哀れで、弱い。(新訳p.43)」
主語のくどさは次の文にも見られるが、実際旧訳は全編を通して「私は」「私が」「私の」「私に」と主語だらけである。
「私は自分を卑しみ、それは私にとって堪えがたい苦痛であった。なぜなら私はそれに馴れていなかった。私は良いにしろ、悪いにしろ、自分に判断を下すことがなかったからだ。(旧訳p.35)」
ここは新訳だと次のようになっている。どちらがスッと読めるかは一目瞭然である。
「わたしは自分を軽蔑した。それは恐ろしく苦痛だった。そんなことに慣れておらず、自分をいいとも悪いとも、いわば裁いたことはなかったのだから。(新訳p.43)」
過剰な「私」以外でも、旧訳の不自然さ、あるいは硬さは、次のような文においても明らかである。
「ときどきあなたは強制的に私の人生を複雑にさせるから、あなたを恨みたいくらいよ。(旧訳p.131)」
ここは河野訳では次のようになっている。
「あなたはときどき、わたしに人生をややこししくさせようとするけど、そうすると、あなたを恨みそうになる。(新訳p.151)」
新訳のよさがもっとも明らかのは、女性(アンナ)のドレスに言及する場面であろう。
旧訳では「ネズミ色」となっていて、これではそのドレスを誉めているのかけなしているのかわからない。
新訳では「シルバーグレー」と訳出され、これで日本人はようやく、ここがドレスを誉めている場面なのだと知ったのである。
「彼女はネズミ色の服をまとっていた。ほとんど白に近い、不思議なネズミ色で、電燈の光に照らされて、ちょうど暁の海の色調のようなネズミ色……その晩、成熟した女のあらゆる魅力が、彼女の内に集められたようであった。(旧訳p.42)」
「アンナはシルバーグレーのドレスを着ていた。ほとんど白に見え、夜明けの海のように光り輝くすばらしいシルバーグレー。成熟した女性の魅力のすべてが、今夜はアンナのもとに集まったかのようだ。(新訳p.50)」
しかしこのように手放しで誉めている新訳でも、私には意味がうまく取れず、英訳版(Penguin books/1958/translated by Irene Ash)を見なければならないところがあった。
それは主人公のセシルが、ボーイフレンドのシリルについて述べた次の文章である。
「もしシリルがわたしをもう少し愛していなかったら、この週、わたしは彼と深い仲になっていたかもしれない。(新訳p.65)」
英訳版を見るとここは次のようになっている。
「...no doubt if Cyril had not been so fond of me I would have become his mistress that week.(英訳p.42)」
つまり「私に対するシリルの気持ちが強すぎたので、私たちは深い仲にならなかった」ということで、セシルらしい考えが出ている。