人生の不条理 ― 社会と個人の対立

21/November/2018 in Warsaw

「人生の不条理」とは、次の2点に集約されるのではなかろうか。

1-「自分の望むことがやって来た時にようやく、それが実は自分が真に望んでいたものではないことに気づくこと」。

2-「『望む時』と、それが『叶った時』が乖離しているために、望んだことが叶っても、十分な喜びをもたらさないこと」。


このどちらも、当人には苦痛と、言いようのない無力感、そして憤りをもたらすのが常である。

しかし、なぜこのようなことが起きるのであろうか。

社会で「良」とされるものを、それが本当に自分が望んでいるかを熟慮せず目指してしまうと、このような不条理は起きる。

また、社会で希少性があると考えられている物事、才能などを、易々と獲得できてしまう場合にも、このような不条理は起きる。

このような経験を重ねた人は「社会」、つまり「他の人」と、「自分」との違いに意識的にならざるを得ない。

自分の価値観が、世のマジョリティーの価値観とは相容れないことに気がつかざるを得ない。

自分には、自分にしかフィットしない、オーダーメイドの価値観や生き方が必要だと気がつくのである。

しかし、その構築と獲得の道のりは過酷である。

絶えざる不安と焦燥、年齢の執拗な追跡、過ぎ去った膨大な量の時と獲得した獲物の少なさ、忍び寄る未来、周囲から置いてけぼりにされる孤独......。

そして「マジョリティーの価値観と肌が合わなくても、色目を使ってすり寄っていた方が、より安全で、より快適で、より簡単な生き方ができるのではなかろうか」という甘い誘惑は絶えることがない。


このような困難な道を歩むことが、俗に言う「生きる」ということなのであろうか?

不思議なことである。