「狭間の時代に生きている」という感覚

21/November/2018 in Warsaw

狭間の国々といったらよいであろうか。狭間にあるということは、自らの主体性がないということではない。自らの自己同一性にどっかと安住できる国民は少ない。どの国民も、どの時代にあっても、多かれ少なかれ「狭間にある」と感じている。 ―『ポーランド・ウクライナ・バルト史(山川出版/1998)』


現代のように価値観が多様化し、そのベネフィットよりも負の側面の方を強く感じるようになると、過去の人たちは、一元的な価値観の下、「よりまとも」で、「より成熟した」「より安定した」人生観を持って生きていたように見えがちである。

過去は「過ぎ去った」ことであり、振り返ってクリアに見渡せるのは当たり前で、未来は「未だ来ていない」ことなのだから、不透明なのは当然である。

しかし、どの時代にあっても「自分は今、狭間に生きている」と感じ、不安になるのは人間の宿命なのではなかろうか。

自分の生きている時代は、過去のいかなる時よりも不安定で、自分たちだけが、否「自分だけ」が、このような予測不可能な生に耐えていると考えるのは、甚だしい自己憐憫に過ぎないのではなかろうか。

いついかなる時代に生きていても、人は眼前の現実、自分を取り巻く環境が、絶え間なく変化する、流動的で捉えどころのないものに見えていて、何らかの不安に常に晒されて生きているものだと私には思われる。

むしろ、自分の眼前の現実を信じられなくなり、捉えどころがないと感じて初めて、私たちは「人生」というものを始めることができるのではなかろうか。


「過去の人たちは一つの価値観の下で情緒的に安定した生を生きていた」と考えるのは、惨めな過去の理想化、歴史をおもちゃにすること、単なるover-smplifyした理念型に過ぎないように私には思える。