幸福観念

10/November/2018 in Warsaw

ヨーロッパでの滞在が長くなってくると、私と「彼ら」とは、根本的なところで認識の差があるのではないかという感が強くなってくる。

その一つが幸福という観念。

「人間は幸福を目指すもの」。

これは今や普遍的とも言える考え方で、先進国に住む大部分の人に広く受け入れられているものである。

しかし、ここにヨーロッパ人と日本人の差があるように感ずる。

(なお、私は日本以外のアジアの国を知らないので、ヨーロッパ/アジアという対比ではなく、ヨーロッパ/日本という対比を行う。)

ヨーロッパ人にとって「幸福」とは、「獲得するもの」「目指すもの」であると認識されているように思う。

つまり「幸福になる」ということが強く意識され、目的としているように感ずる。

一方、日本人にとって「幸福」とは、私は思うに、意識的に目指すべきものとは考えられていないように思う。

「義務に生きる」「責任に生きる」という生き方にこそ、日本人は幸福を見出しているように感じる。

私は「個人主義的な欧米諸国と、集団主義的な日本」という考え方に、長年どうも受け入れ難いものを感じていたのだが、こと幸福という観念に関しては、日本人の幸福とは、「集団の中で責任を果たす、義務を果たす、役目を果たす」ということに大きく依存しているように感ずるのである。

また、自分の属するコミュニティーや社会に対する責任だけでなく、「人間としての生きる責任」といったような、無目的な、無限定な責任観念も日本人にはあるように思う。

つまり日本人の幸福とは、それ自体が目指されるものではなく、あくまでも副次的なもの、責任を果たす課程の中で生まれてくるものである。


日本の街頭で道行く人に「幸福になりたいか?」とインタビューを行えば、大部分の人が「イエス」というであろう。

しかしそれが本当に、その人の幸福観念を表していると考えるのは早計である。

当人ですら、「幸福とは目指すもの」という欧米風の考え方に知らず知らずのうちに染まっている可能性がある。

そして、ここに私は「言葉」というものの危なさと、欧米的価値観を日本人が受け入れることの危険性を感ずるのである。

「言葉の危険」とは、つまり、双方が同じ認識を抱いているように感じていながら、実は別のことを観念している、というケースである。

日本人が「幸せになりたい」と言う時に考えたり、無意識のレベルで想定していることは、欧米人が「I want to be happy」と言う時に彼らが想定していることとは、全く異なるのではなかろうか。

言葉とは抽象のミディアムであり、またある言語から他の言語への翻訳が可能であると思われているからこそ、そこに危険が潜んでいるように思う。

ある日本語の言葉が、別の言語のある言葉と辞書の上で一対一で対応しているとしても、その言葉の裏にある、国民性、文化、伝統(いわゆる「価値観」)も対応関係にあるとは必ずしも言えない。

そうなると、例えば共通言語としての英語で会話をしていて、お互いがわかり合っているように感じても、実はお互いが内面で想起している観念は全く異なる、ということがないとは言えない。

むしろ、私は個人的には、このようなことが頻繁に起きていると感じる。

このように感じるようになったのも、海外への滞在が長くなってからで、数年前までは私も「私と彼/彼女は、英語を介して十分に理解しあえている!」と無邪気に信じていたのである。


「彼女はフランス人、就活中で家事をワンオペで担う僕が気づいた日本企業勤務のハードル」

先日、上記の記事を読んだが、今の私からすると、典型的な若者的な物の見方で彩られた文章であると感じる。

論旨は次の2文に集約されている。

「生き方や働き方は十人十色であり、社会もそれらを保障する方向に動けばより多くの人が自己実現できるはずだ。」

「(外国人に限らず、それが正しいかどうかという普遍的な尺度を用いずに「そういう決まりだから」、「皆がそうしているから」という理由で受け入れたり拒絶できたりしてしまう。この調子では、)日本社会にはそれぞれ異なる個性を守り、生かすという、多様性は一向に根付かない。」

私も、かつてはこのような見方に賛意を表していたのであるが、ここ最近はどうもためらいを感ずる。

つまり、ここで示されたような生き方が、本当に日本人を幸福に導くのか疑問に感ずるのである。

否、「社会やコミュニティー、または人生に対する責任を果たすこと」「和を乱さぬこと」「みんなと同じであること」に代々価値を見出してきた日本人にとっては、「みんなと違う」生き方は、日本人には合わないばかりか、逆に不幸に転落する人が大量に出てくるように思う。

特に、本来は「みんなと同じ」とか「責任を果たすこと」に幸福を感じるタイプの人が、かような西洋的価値観を礼賛する情報に囲まれ、自分の気質とは相容れぬものを目指すことは、起こりがちなことであろう。


現代のヨーロッパ、特に西欧の若者は、「Freedom」こそが最重要の価値観であると強く信じている。

Freeであること、Freedomを目指すことこそが人生の目標であり、その障害になるものをなるだけ取り除いていていくこと、そして障害になるものをなるだけ背負わないことこそが、プライオリティーである。

こういう所から、Dating appが流行り、Hook-upやCasual relationshipが流行る土壌が生まれてくるのであろう。

ミニマリストが流行っているのも、一つの国や、一つのコミュニティ、一つの仕事、一つの事柄に縛られないことが賞賛されるのも同根である。

しかしその結果として何が起きてくるかというと、孤独への転落である。

この点に関して私は、「過剰な自由を与えられると、人間は自由を制限するものを求め始める」と言ったエーリヒ・フロムの「自由からの逃走」に賛成の立場なのである。

また三島由紀夫の「青年には反発と服従の欲望がある」という言葉も、これと同じことを指しているのだろう。

ヨーロッパでは、動物由来のものを食べないベジタリアンやビーガンが、特に若い女性の間で流行っているが、私はこれは「過剰な自由」に対する反発の現れだと見ている。

どれでも食べていい、という自由の状態からの逃避である。

なので、将来彼女らが結婚するなり、子供を生むなりして、「自由」を捨てて「制約」を受け入れた時に、一体どれだけの女性がベジタリアンやビーガンであり続けるのか、興味深く思う。

大抵は、「夫が肉を食べるから」とか「子供のため」とかといった俗な言い訳を作って、自由と制約の関係に気づかないで、動物性の食べ物を再開するのがオチであろう。

さて話を戻すが、「自由の果ての孤独」という点に関しては、日本人と西洋人の間に径庭はないように感ずる。

しかし、その孤独の程度に関しては、集団主義の責任の体系の中で生きる日本人の方がより強い孤独を感じるのではなかろうか。

ここに私は欧米の自由主義的な生き方、制約をひたすらとっぱらった生き方を日本人が目指すことの危機感を感ずるのである。

......ここまで、だらだらと書いてきたが、このような見方が、様々な経験を重ね、自分と人生に関してわずかに賢くなった所から出てきたものなのか、単に年齢を重ねた中から自然と出てきたものなのか、という点が私の中では判然としない。

後者であれば、どこに住んでいても、どのような経験をしていたとしても、いずれは似たような結論に達するということであるが、それは私固有の経験というものの価値を無とする恐ろしい事実である。