海外で長く住んでいる間の価値観の変遷

24/October/2018 in Warsaw

海外で住み始めると、自分の想定した通りには物事が進まないことにまずは驚く。

これはある意味当然で、それまでの住み慣れていた場所(=日本)を離れ、全く新しい環境に身を置けば、まずはそこの「ローカルルール」に慣れる必要がある。

そこでの心構えにおける最適解は「ま、いっか」で済ませてしまうことであろう。

(日本と違って)電車が時間通りにこない。

(日本と違って)電車の中で歌を歌っている人がいる。

(日本と違って)人との距離が近い、云々......。

特に若い人、もしくは女性であれば、すぐにこのような「ローカルルール」に適応できて、まるでそこで生まれた人のように振る舞える場合がある。

そして一旦「ローカルルール」に慣れた時期に、往々にしてこれらの人達に起こるのが、その「ローカルルール」を基準にして日本を批判し始めること。

曰く、日本ではみんな周りの目ばかり気にして、自分の好きなように振る舞えない。

曰く、日本では生き方が決まっていて、そのレールに乗ることだけが優先されてる。

曰く、ルールを厳守するのは素晴らしいけれど、それを守れない人は徹底的に排除される、云々......。

そして、その「ローカルルール」を絶対視し始めるのであるが、ではそれがその後も続くのかというと、所詮は過度期の1フレーズに過ぎないと、自分の体験から感じる。

海外での生活が長くなってくると、寛容になれる事と寛容になれぬ事、つまり当初「ま、いっか」で済ませていたことの中に、どうしても「ま、いっか」で済ませられぬものが混じっていることに徐々に気が付き始めるのである。

例えば日本人と日本人以外の人との時間感覚の違いについて、当初は「日本人は他の国の人以上に時間に厳しいから、あの人がいつも遅れてくるのは仕方がない。自分が時間に厳しすぎるんだ」と考えることができても、時間が経ち、様々な人に出会うと、その中にはちゃんと自分と同じように(=日本人のように)時間を守る人がいるということに気付き始める。

そうなってくると、時間感覚の違いとは、日本とその国の文化の違いというよりも、個人の態度の違い、その人がどれだけ時間というものに注意を払って生きているかの違いに由来するものだとわかってくるのである。

(それでもそういうサンプルを集めてみて、もし10人の中8人が時間にルーズなのであれば、「この国の人は時間にルーズだ」となってしまうのであろうし、もし10人中2人が時間にルーズなのであれば、「この国の人は時間を守る」という印象を持つであろう。異国からやってきた人間は、いつまで経ってもその国を外側から眺め概括する、という癖が抜けぬ。)

こういう中で段々と自分に合うものが何か、ということがわかってくるのである。

当初はすべてを、台風の後の濁流を心広く受け入れる海のように「ま、いっか」と受け入れていたが、その中にある、寛容になれない、自分の中で妥協できない価値観というものが段々と見えてくる。

もちろん自分の価値観と、周囲(国、街、人、コミュニティetc.)の価値観がすべて合うということはあり得ないので、そこは「比較的合う」ものが多い/少ない、という評価基準となるが、自分の価値観と周りの価値観が「比較的合う」場所にいるということが、日々のストレスを最小化し、生活の満足度を高める上で肝心だということがわかってくるのである。