心を中を打ち明けるという罠 ― Oversharing

15/October/2018 in Warsaw

オーバーシェアリング(Over-sharing):過度な個人情報の共有。主にSNS上での情報共有を指す。


私は他の人に強く関心を持っていると思う。これは客観的評価が不可能なことなので、どこまでいっても「主観的にそう思う」という感覚的なものでしかないのだが、それでも人並み以上に他の人の考えや生き方に興味を持っている方だと思っている。

なぜ私は他の人に興味を持つのか?

それは他の人の生き方や考え、物事へのアプローチの方法の中に、自分自身を見ているからだ。

自分と彼ら彼女らとの違いを発見して、比較して、そこに自分自身の独自性なり、個性なりを見出しているのだ。

つまり興味の源泉は、「他の人に対する興味」というよりかは「自分自身に対する興味」であって、「自分自身をもっと知りたい」という動機こそが、真のモチベーションなのである。

他の人を見ているようで、実は自分自身を見ているということ。

これは、意識しているかしていないかは差し置いても、実は多くの人が日常的にしている事であり、コミュニケーションの価値のほとんどはこの点にあるのだと思う。


他の人に対する私の興味は、数年前の方がより大きかったと言える。それは単純に若い頃の方が、人生に対する興味は強いからで、今ももちろんまだ他の人に強い興味があるが、数年前よりは落ち着いた感がある。

とはいえ、当時身についた一つの癖が今だに抜けない。

それは質問を投げかける事。大量に、しかもかなり突っ込んだ質問を。

もちろん全員ではないが、私は人に話をさせるのが上手らしく、ある日ふと考えてみると、私が質問を大量に投げかけていることに気がついた。

当時は日本に住んでおらず英語圏に住んでいたが、母語ではない言語で話す気楽さもここにはあったのだと思う。日本語のように、行間を過度に読む必要も言葉遣いに過度に敏感になる必要もない気楽さが、英語、否、第二言語で話すこと全般には含まれていると思う。

さて、そうやって相手のかなりプライベートな話、過去の話などを私自身喜んで聞いていて、「相手と心の距離が近づいた、こんな短時間で」と無邪気な喜びを無意識に感じていたわけであるが、ある時からそこに「臭味」を感じるようになってきた。

つまり、相手が過去のトラウマ的な話や過去のpainfulな話をし始めると、同情を強いられるような感覚、いやむしろ「この人は私の同情を引くために、こういう話をしているのではなかろうか......」という疑念を感じ始めたのである。

私が質問を投げかけ、意識的にか無意識的にか相手の話の方向をナビゲートしているので、こういう疑念はかなり自己中心的なものであると言えるが、しかし話し手にも自分の話す内容をコントロールする能力や理性はあるわけだから、かならずしも私自身の力だけでこういう状況に持ってきたとは言えず、また相手の心の中にも「同情を買いたい」という意識的な、または無意識の酩酊がないとも言えぬだろう。

特にここ数年は、ソーシャルメディアで「告白話」や「ぶっちゃけ話」のしやすい環境が整い、影響力のある有名人がそういう行為に耽り、「自分自身に素直であること」とか「本当の自分でいること」とかのガラクタな価値観が蔓延し始め、その結果、それらの話をすること自体がその人の勇気とか誠実さとか本物性とか真実性とかを証明・担保するように見え始めた影響は無視できないだろう。

つまり、人間がどれだけ不幸話が好きで、同情してくれる他人を日々血まなこで探しているかということを、私も理解し始めたのである。

そういう中で、人が「過去の悲しい話 or プライベート話」をし始めた時、それがなにやら「周到なトリック」のように私には見えてきたのも自然なことである。

聞き手の同情や関心を引くためのトリック......。

透けて見える、相手の卑小な自己憐憫と自己愛......。

知り合って間もないにも関わらず、心を大きく開いてくる人への猜疑心と警戒心......。

「警戒心」。これは私自身のために特に重要なことであった。ともすれば、私自身が相手の話にのめり込んでしまい、同情や哀れみを抑制できず、「相手の思う壺にはまる」ことがあったのだから。

私自身にも酩酊があったのも事実だ。

私は信頼されている、という感覚。

打ち明け話をしている話し手の勇気や誠実さに対する感銘。

その逆作用として、なかなか自分の話をしない人間に対する不信と蔑視。


今となってはすべて過去のことなので、このように自分の思考や感覚の辿った跡を時系列に書いていけるが、ほんの少し前までは、「打ち明け話をしてくる相手への警戒心」と「私は信頼されているという酩酊」の間を行ったり来たりしていた。

今では、すぐに個人的な事柄を打ち明けたり、打ち明け話をしてくる人には、ある種の警戒心を持って接するべきだと強く感じる。

人間関係の構築には時間がかかってしかるべきであって、「時の積み重ね」という要素は、人間の人生全般において絶対に無視できない要素である。

「時の積み重ね」を無視して、短期間で「心の距離」だけを近づけようとすると、その反作用が必ず起こり、人間関係を一瞬のうちに瓦解させるという劫罰を受けることになることは、私自身の経験で学んだことだ。

以前こちらで書いたが、「時」というものはある種の「重量」を持っていて、時の経過というのは、この世界のあらゆることに重みを加えていくことなのだと改めて感ずる。


Over-sharingに関して心がけること(from Forbes

A misguided attempt to gain sympathy. If you share your mistakes in an effort to help others learn, you are being authentic. If, however, you share your hardships to gain pity, you’re oversharing.

人から共感を得ることが目的の過度な情報共有。自分のミスや失敗を、人からの共感欲しさに共有するのではなく、他の人に役立ててもらう目的で共有すること。

An attempt to fast-track the relationship. Authentic people build relationships first. Over-sharers blurt out personal information in an attempt to gain a sense of intimacy, without building trust.

インスタンスな人間関係構築のための過度な情報共有。人のぬくもり欲しさに、過度な情報共有で急いで関係を築こうとするのではなく、時間をかけて適切な信頼関係を築いていくこと。

Your story still owns you. When pain is raw, it can feel like the whole world sees there’s something ‘wrong’ with you. For many people, that’s anxiety provoking. Over-shares relieve their anxiety by revealing their pain. Authentic people, however, tolerate that anxiety and carefully consider whether it’s good idea to share.

人間関係における境界線をわきまえること。深い悲しみや心の傷を、何でもかんでも打ち明けること/オーバーシェアによって癒そうとするのではなく、一度立ち止まって頭の中で再考すること。