肌になじむもの

27/June/2023 in Tokyo

*English ver

図書館で本を読んでいると、隣に若い女性が座った。

横並びのソファで、距離は2メートルほど。

それまで30分ほど読んでいた本にはすでに飽きが兆し、姿勢もだらりとしていたのが、女性が横に座った瞬間、いきなりこれはよくないという緊張が身体を走った。

姿勢を正した理由は、人の目を意識したからだけではなく、そこには確かになんらかの甘い酩酊があったからだ。

隣に座ったのが若い女性だからである。

もしこれが老婆であったり、あるいは男であったりしたならば、姿勢を正す気にはなっても、酩酊なんぞがきざすはずはない。


横並びに座っているので、全体をはっきり見ることはできないが、身長は160 - 165センチほど、コンバースのスニーカーに黒のロングスカート、そして白いブラウスに、黒の髪をうしろで結んでいるのはわかる。

現代の若い女性が日曜日に図書館にくる服装としてはごく標準的なものだろう。

顔は見えない。しかしこれらの外面的要素と、本を読む姿勢、座りかた、ページをめくる動きなどの無数の要素は、彼女の容姿を保証するのに十分である。

夏になると、ふんわりした白いブラウスを着た女性をよく見るが、この白いブラウスと黒髪の組み合わせは実に日本人女性に合っている。

清潔と清廉の美。

さて、起きたことはただ若い女性が横に座ったというだけである。

しかしただそれだけで、男の私を酔わしてくれる。

つくづく女とは偉大な存在であると思うのはこのような時である。

男に生まれた幸運をしみじみと思い、そして絶対に女にはなりたくないとも思う時もここである。

「いい男がそばに来たときには女も同種の酩酊を味わうので、お互い様である」とは私は思わない。

この前提条件としてその男は魅力的でなければならないが、そんな男は多くない。

男女を比べれば、明らかに女の方が身だしなみには気をつかっている。

日常の場面での異性由来の高揚感は、男の方が得られやすいのは確実である。


気温が上がり夏が近づくなかで、私の目に日本人女性が徐々に魅力的に見えるようになってきている理由はなんであろうか。

マスクを外す人が増え、素顔が見えるようになってきたからであろうか。

素肌の露出が増えてきたからであろうか。

湿度が上がって、香水や髪の香りをより強く感じるからであろうか。

ファッションに対する日本人女性の細かな注意がより一層はっきり見えるからであろうか。

この最後の点は、夏は着るアイテムを少なくしながらも、どのようにオシャレに見せるかという、他の季節よりも一段高度な注意と能力が求められることを述べているのである。

思えば、こういうところに私は日本人女性のありがたみを見るのであろう。

ヨーロッパでも当然オシャレな女性はいるが、気の使い方、注意を払う部位が日本人女性とは異なる。

そのため、私の目にはオシャレと映り、そして私はたしかにそこに満足しているのだが、なにか自分の中の深い部分にある女性に対する期待をしっかりと満たしてくれるようには感じられない。

これが「違和感」とか「不満」とか呼ぶほどに大きなものにならないのは、私が日本ではなく彼の地/ヨーロッパの地におり、現地の習俗を当然のものとして受け入れていたためであろうが、それでも私は知らず知らず「妥協」をしていたのかもしれないと、日本女性を見ていると思う。

日本で見る日本人女性のファッションへの気の使い方にこそ、私の中にある女性に対する期待を満たすもの、私の肌に馴染むものがあるように感じるのである。