セックスと感情

8/June/2023 in Tokyo

*English ver

アムステルダム時代の私の人生を書いている。

書く作業自体はすでに終わっているのだが、推敲というもっとも重要な作業が遅々として進んでいない。

書いたことを読み返していて気がついたのは、ある女性について書いていないことだった。

顔も名前も服装も、話す時のアクセントも思い出せる。

彼女をはじめて見た時間と場所、彼女に話しかけた道、過ごした時間、交換したメッセージも覚えている。

私たちは恋人関係ではなかったが肉体関係はあった。

今も覚えている。
ある一定の継続した時間を過ごした。
肉体関係という一線を超えた関係があった。

どんなに遊び歩いた男でも、セックスが肉体の領域だけに留まる事柄であるはずはなく、そこには絶対に感情の領域への侵食がある。

それでも彼女のことを私はまったく書いていない。

しかしこの本には、ほかの、肉体関係を持っていない女性たちが数人出てくる。

たとえば同僚だったシリア出身の女性。

ある朝、彼女がオフィスに入ってきたときのことに私は何行も費やしている。

それは4月のある朝で、それまで何度も目にしていた彼女の美しさにはじめて気がついた場面だった。

黒々とした髪、浅黒い肌、カラフルな瞳……アラビヤ女性の豪奢をはじめて知った瞬間のことである。

「エキゾチック」という言葉は、黒髪の女性にしか私は使えない言葉である。

髪が茶色や金色やジンジャーであると、「エキゾチック」を成り立たせる「神秘」の要素がはるかに薄く感じられる。

この同僚と深いつきあいをしたとか、言葉を多く交わしたということはない。

単なるひとりの、疎遠な同僚にすぎなかった。

そんな女性のことを何行も書いているのに、私は肉体関係をもっていた女性のことはひとつも書いていない。

不思議なことである。

当然、彼女との間に思い出したくないことがあるとか、ましてや肉体関係についての話を公にしたくないといったことが理由ではない。

思うに、書きたくなるかどうかは、その事柄やその人がどれだけの感情的な波を私のこころにもたらしたかによるのであり、外から見えること、「行動」に属すること、例えばセックスをしたとか、結婚をしたとか、手をつないだ、喧嘩をした、どこかを訪ねたといったことは、それが何かの感情のうねりをもたらさない限りは印象に残らない。

記憶には残るが、しかし生々しいものとしては残らない。

つまり基準はそれが他の人の目に、もしくは社会的に、あるいは常識の上で、つまり客観的にどれだけ大きく見えるかではなく、私の感情をどれだけ揺さぶったかに依るのである。

そう考えると、彼女との関係やセックスはたしかに記憶には残っているが、私の感情をそこまで大きくは揺さぶらなかったのであろう。

それよりも、ある朝突然目の前に現れたアラビヤ女性の美との一瞬の邂逅の方が、私のこころをざわつかせ、そのために今でも生々しいものとして思い出せるのだろう。

(技術的に、肉体よりも感情の事柄の方が「書く」という行為と親和性が高く、また私自身の内省的な気質とも合っていることは言を俟たない。)