純粋な賛辞:男が男を褒める時

24/January/2019 in Warsaw

女性が他の女性の容姿を褒めることと、男性が他の男性の容姿を褒めることとの間には、その認識に対して社会的に大きな隔たりがあるように感ずる。

つまり、前者の場合はそこにsexualityの事柄が入ってこない(ことが多い)が、後者は多くの場合入ってくる。

すなわち、この場合の男性は、同性愛者であると思われる場合が多いのではなかろうか。

しかし、異性愛者の男性が他の男性の容姿を褒め称えることに対して、すぐさま同性愛や両性愛の要素を嗅ぎつけることは了見が狭いと私には思われる。


男が女の容姿を褒める時の根本的な動機というのは、性的関心、つまり「この女とセックスをしたい」というもので、容姿を褒めるのはその「ポイント稼ぎ」に過ぎない。

その点、異性愛者の男が他の男の容姿を褒める時というのは、そのような性的な動機、卑しい動機、みすぼらしい動機は存在せず、その男の容姿だけを美的観点から褒め称えるという、いわば公平無私の態度が根底にあると言える。

つまり異性愛者の男が他の男の容姿を褒め称える時、彼は忠実な「美の鑑賞者」「美の僕(しもべ)」となっているのである。

「ポイント稼ぎ」のための賛辞と、「美の鑑賞者」としての賛辞。

後者の方が純粋であることは言を俟たない。


さらに論を進めて、もしこの異性愛者の男にガールフレンドがおり、他の男へ賛辞を与える場合を想定する。

この場合、この男は前述の通りすでに純粋で忠実な「美の僕」であるわけであるが、さらにこうも考えられる。

いま彼にはガールフレンドがいる、他の女に幻惑される必要はない、なので他の男の美しさを心おきなく楽しむことができる......と。


ストレートの男が他の男の容姿に対して与える賛辞ほど、純粋な賛辞はないのではなかろうか。

男の本能として縄張り意識があるが、これは他の男に自分の女を奪われないためのものだ。

なので男は基本的に、他のすべての男を敵として認識している。

しかし人間が社会的動物として生きる以上、時折り他の男に賛辞を与える必要が出てくる。

しかし、そこで与える賛辞の対象は、相手の知能や運動能力や社会的地位など目に見えぬものが大半だ。

もし仮に、相手の鍛え上げられた筋肉に賛辞を与える場合であっても、それは相手の努力の成果に賛辞を与えているのであって、筋肉そのものではない。

対して容姿という、先天的要素の非常に強い、また知能とも社会的地位とも縁のない対象に賛辞を与えるということは、ことごとく男の本能に反している。

(男は先天的なものに対し、女ほど尊敬の念を抱くことができない性だ。)

だからこそ、この条件を満たす「ストレートの男が他の男の容姿を褒める」という賛辞は、至純なものとなり得るのである。

性的動機からでもない、また邪心も裏心もない、純粋な賛辞となるのである。