春の憂鬱

6/March/2018 in Tokyo

まだ肌寒いものの、3月に入り、日の昇る時間は確実に早くなり、一歩一歩季節が変わりつつあるのを感ずる。

日本で春を迎えるのは3年ぶりだ。

しかしどうも私は日本の春が好きではない。

より具体的には、この冬と春の季節の端境の時期が特に。

寒さの中で美しく秩序立っていた諸々のものが、春が近づき暖かくなる中で、弛緩して、締まりを失い、だらしがなくなっていくような感覚。

冷たく透き通っていた空気が、生暖かい空気で濁され、穢されていくような感覚。

物憂さが日々高まっていくような感覚。

1年のNegativityをすべて凝縮したような冬の最後の月、2月と、希望を強いるような明るい世界の到来を祝わなければならない最初の月、3月。

こういう感覚を日本で春を迎える時はいつも覚えていたし、今年もまた同じことを感じる。


ヨーロッパでの春の始まりには、不思議とこのような物憂さを感じたことはない。

もしかしたらヨーロッパの冬はあまりにも暗くあまりにも陰鬱なので、明るくなっていくことに未練なく身をまかせられるからかもしれない。

もしかしたらヨーロッパは一年を通して湿度が低いので、日本のように湿度が増して空気が穢されていくような感覚を覚えることが少ないからかもしれない。

ヨーロッパの人々の春を待ちわびる気持ちは、日本人のそれとはちょっと比較にならないほどであると思う。

そして実際ヨーロッパの春の美しさは素晴らしく、それは数ヶ月前までの陰鬱で暗黒の時期との対比もあって、さらに美しく見える。


さて、日本の春が来ることへの呪詛を綴ってきたが、そうは言っても「春が来る」という言葉の響きが持つ、明るく軽い爽やかさは心地よい。

もしかしたら私は、現実の春ではなく、ただ言葉の上の春だけを有難がっている人間なのかもしれない。