by axxxm
10/March/2018 in Tokyo
本や絵や映画や音楽といったアート作品や芸術作品を鑑賞する時、そこには必ず何らかの「メッセージ」が込められていると信じて、それを生真面目に必死に読み解こうとする人たち。
そして「メッセージを読み解けたこと」を、「作品を理解できたこと」と考える人たち。
しかしそもそも、あらゆる作品には必ずそれに対応する一つ以上のメッセージがあるはずだ、という考え方は正しいのだろうか。
メッセージがあるはず、という考え方は、「まずメッセージが最初にあって、その後それを元に作品は作られた」という「メッセージ/伝えたいこと/コンセプト → 作品の制作」という流れが前提になっていると思われるが、はたしてそれは正しいのだろうか。
メッセージを読み解くことを作品を理解するための唯一の方法だと考えるのは、一つの誤謬なのではなかろうか。
なにより、作品には「メッセージ」というものが不可欠なのであろうか。
こういうことを考え始めたきっかけは大きく3つある。
1つ目。
はるか昔、谷崎潤一郎の小説を読み始めた頃、彼の作品は「思想がない」と一部で評されていることを知った。
そのため同時代の「思想がある」作家と比べて低く見られていたとのこと。
確かに、例えば同時代の作家である三島由紀夫の作品と比べた時に、谷崎のそれぞれの作品には何か主張したいこと、読者に伝えたいこと、つまり「メッセージ」があるようには思えない。
谷崎の作品は一貫していわく言いがたい変態性をまとっているが、それはあくまでも彼個人の趣味であって、メッセージの有無とは関係がない。
後に彼の代表作の一つ「細雪」を読んだが、超長編にもかかわらず谷崎個人の主張といったものはどこにも現われず、つまり作者の「エゴ」が片鱗はまったく現れないので、ひたすらに無私のこの長大な小説はまるで「物語」という伝統文化に捧げられているもののように感じられた。
2つ目。
三島由紀夫の長編エッセイ「小説とは何か」には、「主題は後であらわれる」ということが書いてある。
小説を書き始めた時点では主題というものは作者にわかっておらず、その主題を解き明かそうとする作業こそが「小説を書く」ということだと三島は述べている。
「主題」とはつまり「メッセージ」ということだが、ここで述べられているのは「メッセージ → 作品制作」ではなく「作品制作 → メッセージ」という流れである。
三島は同エッセイにて「主題が書く前にわかっているものとは、そもそも小説ではない。少なくとも文学ではない。主題をはっきりと決めて書き始める必要があるのは、探偵の謎解き物語だけだ」と述べている。
なお三島は、松本清張を始めとする探偵小説作家、ミステリー作家を自分よりも遥か格下だと見なしていた。
3つ目。
昨年、日本に帰国して上野の東京国立博物館に行くと、「近代の美術」のコーナーで次のような記述を目にした。
「屏風やふすま絵を『美術』とは認めず、生活を彩る陶磁や金工・漆工・染織といった工芸を『美術』とは考えない西洋の芸術観念......」
「......日本に西洋の近代的思想が持ち込まれたことで、美術の世界でも個性が尊重されることになりました。そこで個人的な主張や思想が制作上、最も重要なテーマとなっていきます。」
最も重要なのはこの3つ目で、ここで述べられていることとはつまり、アーティストの主張や思想、すなわち「メッセージ」が意識されるようになったのは、少なくともここ日本では、近代以降ということだ。
そしてこのような傾向は、個人化が進んだ現代ではさらに進んでいることだろう。
そういえば以前ロンドンに住んでいた頃、日本とイギリスのアート系大学の違いについて耳に挟んだことがある。
曰く、日本の大学はテクニックや技術を重きを置いている。
対してイギリスの大学では、制作以前のもの、つまりアイディアやコンセプトを重視している、とのこと。
これはわからなくもない話で、イギリスのアート学生の制作物を見ると、一見ぐちゃぐちゃして粗雑なものであるのに、そこに添えられたコンセプトの説明は非常に洗練されている、ということが多くあった。
日本のアート大学の学生のコンセプトが弱いものなのかどうか私は知らないが、様式を重視する日本の文化を考えると、「コンセプト」といった抽象的で目に見えないものよりも、外見を飾るものであるテクニックや技術の教育に力をいれる傾向があるということは容易に推測できる。
ここでいう「コンセプト」とか「アイディア」とかは、もちろん「メッセージ」と同義であるが、ところでメッセージを重視するアプローチの危険とは何であろうか。
その一つは、このようなアプローチが場所や時間を超えた普遍的なものであると思い込んでしまうことであろう。
例えば、ネアンデルタール人が洞窟に書いた壁画にメッセージ性を読み取ろうとすること......。
しかしあの壁画を書いたネアンデルタール人は、描く前に「この壁画で人々に伝えたいことは何か?」なんて熟考したのだろうか。
ただ時間が有り余っていたから、暇つぶしに書いていただけではなかろうか。
作品のメッセージ性が強調されだしたのは、少なくともここ日本においては近代以降であるはずなので、それ以前に制作された作品から「メッセージ」を読み解こうとする態度は、まさに「存在しないものをまるで存在しているかのように信じる誤解」に基づいた二重の誤解を生みかねない。
そう考えてくると、「作品には必ずメッセージがある」と信じている人たちは、「自分はメッセージを読みとこうと真面目にアプローチしているのだから、アーティストも必ず真面目な態度でこの作品を制作したはずだ」という、自分の「真面目さ」の対になる「真面目さ」を相手に期待してるようにも見えてくる。
実際には、何も考えずただ心のおもむくままに作られたもの、余暇を持て余した末に作られたものかもしれないのに。
しかし、私を含め現代人は大なり小なり「メッセージは必ずある」という考え方に侵されているので、ここを脱するのは簡単ではない。
アート作品とは、その大半がそもそも不合理で秩序だったものではないということを踏まえれば、それにふさわしいアプローチ方法も理性的なものではないはず。
果たして、「メッセージを読み解く」とか「作品を理解すること=メッセージを読み解くこと」といった肩苦しい、真面目くさった、理性的な考えを捨てて、ただ心のままに作品に向き合うことはできないのだろうか。