なぜKazuo Ishiguroの本はつまらないのか

6/May/2018 in Tokyo

最初に断っておくと、私はKazuo Ishiguroの本をすべて読んでいるわけでも、Kazuo Ishiguroについての知識が豊富なわけでもない。

読んだのは処女作「遠い山なみの光」と、代表作とされる「日の名残り」だけである。

しかし、ある作家の本を2冊読んでそこに何らかの感興を覚えなかったら、それはその作家の質が悪いか、もしくは私との相性が悪いかのどちらかであろう。

1冊読んでみてつまらなくとも、「私の思い違いかもしれない」ということで2冊目を読んでみる。

しかしそれでも同じつまらなさを感じたならば、読者はそこまで寛大でなければ暇でもないので、3冊目に手を伸ばすことはないのである。


Kazuo Ishiguroのつまらなさは、作品で示される視点や価値観が凡庸なことに依る。

例えるならば、「カラス=黒」という世間の常識があった時、Kazuo Ishiguroはただひたすらこの常識に迎合するようなことを書いている作家である。

如何程にカラスは黒いのか、なぜ黒いのか、どのように黒いのかを延々と書いて、まったく飽きない作家なのである。

しかし私が文学に期待していることとは、自分の持っている価値観やものの見方、世間の常識に対して挑戦状を叩きつけられることなのだ。

それまで疑問に思っていなかった「当たり前」に対して、予期せぬ角度から疑惑の光を当てられること。

それは文学というフィクションの世界でのみ通じる「嘘の価値観」でも構わない。

つまり文学の価値とは「如何に文字だけを使って読者に虚構を信じさせるか」「頓珍漢な思想を、如何にさも現実のもののように書き表すか」という点にあると私は考えているのである。


新たな価値観を提示して読者の世界認識を変革させる、私がいま述べているところの「文学作品」とは、多くの人にとっては「危険物」なのである。

その本を読んでしまったばかりに、それまで自分を取り囲んでいた平和で安寧な世界に亀裂がはしったり、時には木っ端微塵に破壊されてしまうのだから。

そのような観点で言うと、Kazuo Ishiguroの作品には、新たな価値観やものの見方を読者に提示するような作者の意思は存在しておらず、また読者の世界認識を揺るがすような「危険な毒」もない。

ひたすらに真面目で、教訓的で、道徳的で、世間常識におもねった、妾のような小説家である。

Kazuo Ishiguroの作品には「毒」がない。

これこそが、私が感じたつまらなさの最大の要因である。


カラスの例を再び引けば、「カラス=黒」という手垢にまみれた「世間知」を信じる人たちに対し、「カラスは黒ですよ」という耳ざわりの良いことを、最初から最後までひたすらKazuo Ishiguroは書いているのである。

一方で、私の中での作家とは、「カラスは白い」という新しいものの見方、世間知とは真逆の価値観を提示し、それを読者に信じさせるために労を取る。

畢竟これは個人の好みや価値観の問題なのであろうが、かつて三島由紀夫や谷崎潤一郎という「文学作品を書く作家たち」をノミネートしていたノーベル財団が、このような世間迎合的な作品の作者に賞を渡すとは、時代の変化を感じずにはいられない。


さて、今回のノーベル賞で個人的に興味深く感じたのは、Kazuo Ishiguroが日本をルーツに持つ移民であり、彼の地で(ローカル以外には参入障壁の非常に高い)文筆業で賞を受けた点である。

イギリスは多文化主義の最先端をいく国の一つである一方、日本は多文化主義の価値観が広がってもいなければ、する気配も当分はない。

このような国にルーツを持つKazuo Ishiguroが、多文化主義という世界の潮流を代表する人として昨年ノーベル賞に選ばれたことの本当の意味(或いはノーベル財団から日本へのアイロニー)は、もっと注目されてもいいのではないかと感ずる。