今は亡き幻を見せられる

26/May/2023 in Tokyo

*English ver

ここ数日、めずらしく映画を観ている。

『ローマの休日』『若草の萌えるころ』『ロリータ』『天城越え』『The Lady Without Camelias』『哀しみのトリスターナ』『昼顔』『溝の中の月』『情事』『マリアの恋人』『ダーリング』『三つ数えろ』『狂ったバカンス』『恋ざんげ』『あの胸にもういちど』『Keiko』……

観ているのはかつて私が観た映画ばかりで、どれも娯楽作品というよりも芸術色のつよい作品ばかりである。

しかし私にはなんらかの深淵なテーマなり問題意識なりを映画に見出そうとする意欲はない。

私が映画を観る唯一の理由。それは美しい女優を見るためだけである。


10代のころは「自分が映画好きだ」と信じようとしていたが、その実どうも信じきれず、むしろ映画は何か怠け者のようにすら感じ、そして20代後半以降ほとんど映画を観なくなった理由。

それはいくつかあるが、そのうちのひとつは、自分自身がヨーロッパで何年も住むようになって、当時映画を観ては憧れていた景色の中を実際に生き始めたからである。

またもうひとつは、若い頃の自分は、その映画の歴史的意義や価値なり影響なりで観る映画を決めていたので、虚心坦懐にこころで映画を感じるのではなく、頭で観ていたからである。

これはつまり「後続の監督に大きな影響を与えた映画」とか「映画史に足跡を残す名作」とかいった映画の周りにただよう「情報」に惹かれ、それを確認するために映画を観ていたといえる。

その結果として、映画を観たあとはいつも「そんなにすごい映画なのかな?」「この映画をすごいと思えないのは自分に見る目がないからだろう」という考えになっていた。

当時の若い私は自分の感覚を信じられないために、世間に流布する言説なり権威なりを必死に信じようとしており、しかしそれでも自分の中の感覚は欺けず違和感を覚えていたのだ……と今なら分析できるが、同時に当時の私にとって徐々に映画を観ることが楽しくなくなってくるのは当然であったこともわかる。

これらの理由とともに、以下のようなものも私が映画から離れる理由だった。

― 2時間も画面の前に座っていられないこと

― 映画の場面場面で流れる音楽が、「監督が意図している感情」を強制されるようで不快なこと

― 「映画」という表現方法に対する疑問

……こういう自分の変遷を見てくると、今の私が映画を観るのは美しい女優を鑑賞するためだけという、画面に映るもっとも単純でもっとも表面的な美の享受の地点に到達したのも当然の帰結のように思える。