by axxxm
4/May/2024 in Tokyo
一週間ほど、フワンソワーズ・サガン『かなしみよ こんにちは』を読んでいた。読み終えるのが嫌で、少しづつ惜しむように小説を読んだのは実に久しぶりであった。
この小説のように、10代後半の女性を主人公にした物語に惹かれているときがあった。私自身が10代後半のときである。
手を伸ばせば届くすぐそこにいて、しかも一日の半分以上を同じ場所で過ごしているというのに、実際には無限に離れたところにいる女子たち。自分の現実の生活では決して知ることができない彼女たちの内面世界を、同年代の異性を主人公とした小説を読めばありありと見渡せると思っていたのである。
しかし『かなしみよ こんにちは』を読んでいて、17歳のフランス人少女を主人公とするこの小説は、10代後半の私には絶対に読むことができない小説であると感じた。これは、あれから10年以上の時間が流れた今ようやく読める小説であった。つかみどころのない文章で綴られているからである。そしてそのような文章で描かれている対象が、さらにつかみどころのないもの……女性の感情だからである。
私は長い間、小説を読むとは話の筋を追うことだと思っていた。誰が、どこで、何をしたという出来事とそのつながりを説明するもの、この「ストーリー」というものを理解することが小説を読むことだと思っていたのである。脈絡のない出来事が突発的に現れる小説にはすぐ混乱し、たちまち退屈を覚え、あっさりと投げ出していた。
『かなしみよ こんにちは』は昔の私がまさに苦手としていた文章で覆われている。理知的な、1 + 1が2となるような文章では書かれていない。
私がこのようなうつろいやすい、浮遊感ある文章を読めるようになったのは、単に年齢のためであろう。人生というもの、感情というもの、そして女性というものを知ったからである。
今の私は、理由も、秩序も、目的も、帰結もないもろもろのつみかさねこそが人生だと考えている。さらには、論理とか理知とか客観とか意味とかいったものからは完全に逃れた領域にこそ、生きるに値する生があると考えている。
理由も秩序も目的も帰結もなく現れては、論理も理知も客観も意味もなく消え去っていくもの……この「感情」と呼ばれるもの。「感情に生きる」ということに、「感情に生きる」ということだけに、私は「人生」を見い出しているのである。
女性についても同様のことがいえる。若いころの私は、男女関係に「平和」「安定」「静けさ」しか見ていなかった。決して「不安」「動揺」、そしてそこから立ちのぼる「愉しさ」ではなかった。つまり、体の関係を一回もっただけで「君と結婚する」「一生離さない」といってしまう登場人物、25歳の青年セシルとは私だったのである。
20歳前後の男と女は比べものにならない。自分の「オンナ」という性がどれだけの力をもっているのかを知った女は、男に対して無限に残忍になり得る。しかもその力は、実はこの世界を駆動させている真のダイナミズムであるとまで知ってしまった女に至っては。そこに対する怖れゆえか、妬みゆえか、憧れゆえか、男は感情を蔑視し、性欲を一段劣るものとみなし、論理の世界に生きようとする。秩序とか正しさとか客観とかを持ち出してくる。しかしそれはかならず敗北するのである。
オンナの性の力に対してオトコの性の力は、外の世界を、他者を自らすすんで従わせるような魅惑のパワーではない。溜め込まれて行き場を失っている、そして時折り爆発することを運命付けられた、ひとりよがりの孤独なパワーである。
1 + 1が2とはならない感情の世界をさらに一層おし進めた場所とは性の世界であろうが、そこに到達できるのは女と、ほんの一握りの男だけである。
心の中で「彼を愛してる」とつぶやきながら実際の言動がまったく一致していない17歳の女主人公の感情の動きは、17歳の私には決して追えなかった。「愛」あるいは「恋」とは、まっすぐ相手に伸びていく一直線のものだと考えており、右へ左へとジグザクになっていたり、道半ばでかすんで見えなくなっていたり、あるいは唐突に途切れたりしているものとは考えていなかったからである。そして世の女性は、男の私以上にもっと強くこのような考えを信じていると想像していた。
そう思うと、私もはるか遠くまで来たような気もしてくる。今の私が女性との関係に求めるものは、不安であり、動揺であり、愉悦であり……つまり不純さであり、そして関係がスムーズに波風なく進行していくことには退屈しか見ないのだから。かけひきのない関係を、今の私は男女関係と呼ばないのである。
柔らかで、透明で、すっと消え去っていくような文章と、それを使って描かれる、風が吹けば流れてゆく霧のような女性の感情と行動。
10代後半の私がこの本を読めなかったのは当然である。人生とは計画通りに進めることができ、原因と結果は常に一対一であり、そしてその終わりまでも見通しが効くものだと考えていたのだから。女性のことなんてなんにも知らなかったのだから。
正直にいえば、今の私でも『かなしみよ こんにちは』を完全につかみきれたとは思っていない。にぎったと思ったらさっと逃げていくような瞬間が何度もあった。
舞台が夏の海の避暑地ということもあろうが、「みずみずしい」「まぶしい」といった言葉が、日本語訳で読んでいても浮かんでくる文章であった。特に主人公がコーヒーを飲みながらオレンジをかじるシーンは鮮烈で、地中海の夏の太陽が見えるようである。
「アンヌが顔も上げないので、わたしはコーヒーカップとオレンジを一個持って、ゆったり石段にすわり、朝の楽しみにとりかかった。まずオレンジをかじる。口じゅうに甘い果汁がほとばしる。続いて、やけどしそうな熱いブラックコーヒーをひと口。それからまた、さわやかなオレンジ。朝の太陽がわたしの髪をあたため、肌についたシーツの跡を消していく。あと五分で泳ぎに行こう。」
―『かなしみよ こんにちは』(河野万里子訳/新潮文庫/p.32)
物語が終わりに近づくほど、良い小説を読んだという満ち足りた感情の昂まりがあった。そして自分も小説を書いてみたいと、はじめて思った。
自分の目に映った現実由来の成分を正しく並べることにだけ腐心したものではなく、透明の液体で満たされたこころの水槽を通るときに煌めいたことだけを、できるだけ恣意的に、できるだけ行き当たりばったりに、でもできるだけきれいに写し取った小説というものを。