「東欧」という言葉

26/January/2021 in Tokyo

芦田均の「革命前後のロシア(自由アジア社/1958年)」、特に「ウクライナからトルストイの墓へ」と「黒海周遊記(1928年の旅)」をとても興味深く読む。

東欧、しかもウクライナの旅行記というだけですでに心ひかれるが、それが1900年代初頭の第二次大戦どころか第一次大戦よりも前、しかも筆者は後の総理大臣とくれば、読まない理由はなくなってしまう。


しかし私はなぜこの地域にこうも心ひかれるのだろう。

「東欧」という言葉が持つイメージにすでに10年以上私は引きずられており、ポーランドに住んだのも、いやその前のイギリスに行ったのですら、その具体的な現れといっていい。

「東欧」。この言葉にすでに、メランコリー、憂愁、哀しさ、悲劇、哀愁などといった私の想像力を刺激してやまない匂いが立ち込めている。

これらのイメージは、強大な権力に挟まれ独自の地位を築くことを常に妨げられてきたというあの地域の歴史的現実から自ずと立ち昇ってくるものであるが、このイメージの先では、その苦難の歴史故に人々は忍耐強くて、控えめで、素朴で、足るを知っていて、そして彼らを取り巻く自然と調和を保った生を送っているという私の理想をも重ねているのである。

これは私が日本の地方に住む人々に対して抱いているイメージと一致する。

軽薄で、冷淡で、流行りものに敏感で、拠り所のない生を抱えている都会人、いわば自分の中の好きになれない部分の裏返しとして、その真逆の気質を持っているであろう地方の人に理想を見出している心持ちである。

私は10代の頃よりこういった「理想」を胸に抱いていたが、今は日本から世界に出るようになり、語弊があるが「世界の中での地方」、つまり大国ではなく世界の政治経済のメインストリームではない国の人々に、この夢想を投射しているのである。


さて「革命前後のロシア」は、第一次大戦が始まる4ヶ月前の1914年(大正3年)4月に、当時26歳だった芦田がサンクトペテルブルクへ「見習外交官」として赴任する場面から始まる。

サンクトペテルブルクがロシア語風の「ペトログラード」と書かれているように、本書には至る所で時代を感じさせる表現が出てくるが、中でもキリスト教の教会や聖堂を仏教風に「寺院」「伽藍」「和尚」といった言葉で説明している点で特に顕著である。


・・・坂を上がると村のお寺である。四十五尺の高さの鐘楼に燕が一面に巣をくつている。お寺の構内は草が蓬蓬と茂つて足を踏み入れる余地もない位。そつと窺うと本堂の入口は締切つている。

髭面の年取つた寺男がのつそり現れる。

「和尙さんは留守か」・・・

(p.191)


男の書く風物記には、女への下心が至る所に表れてしまうものだが、その点は後の総理大臣である芦田も例外ではない。

例えば「ヴォルガ河のほとり」の章で登場する16歳の小娘エレーナ、同じ章のヴォルガ河を下る船の乗合客「二十歳あまりのフランス嬢」で「眼の大きな、しかしどこかに憂のある、笑うと不思議に人の心を惹き付ける面立ち」のベルタ、「黒海周遊記」の27歳のブロンドの役人、エレーンなど、時にあからさまに時にひそかに、若かりし頃の芦田の女への関心が透けて見えるのである。

芦田の女性観については、休暇で訪れた友人宅で女主人マリーと交わす会話が興味深い。

ここは「ルイビンスクからヴォルガ河を2時間下ったロマノフという村」から、さらに2時間下ったところにある湖畔の友人の家で、芦田はここに一週間ほど宿泊した。

ここを去った後、わずかな距離でヤロスラーヴについたとあるので、ヤロスラーヴの近くであろう。


「アナタはロシアの夫人をどう御考えになつて?」

「この国では女の方が性格的に男より確かに強い。判断力もすぐれているでしよう」

「そうかも知れませんわ......ですが女友達としてはどう思いますか」

「痛快な人も多いが、時々は辟易する型もありますね」と答えた。

マリーは心もち首をかしげてにこつと笑つたが、直ぐ真面目な表情を取り戻していつた。

「外国人にはどこまでロシアの女が理解されるかと疑うことがありますのよ。ロシアの夫人は肉欲的だとか、官能的だとかいうけれども、一番大きな要求は『心』なんです。熱情を求めるんですよ。単純な愛、小説に書いてあるような恋愛じやなくてね。だから一度男に迷つたら、永久に迷いこむといつた一本調子なんです」

「その点でも男より女の方がはつきりしているという訳です」

「そうですよ。勇気の点でも意思の点でもね」

「しかし早く熱して早くさめるという一面もあるのではないかしら・・・」

「過去のことは過去、無かつたと思えばいいんでしよう。それが熱情のないという理由にはなりませんわ」

風につれて遠くの合唱の声がかすかに聞える。P君の弾くピアノの音は、いつのほどにか消えていた。マリーはやや熱を帯びた声でいつた。

「女友達に親しめば親しむほど、友情と恋愛の境界が判らなくなると考えませんか」

「そうでしよう。だからその一線を超えないことが男性の自制力によるという訳です」

すると彼女は

「だからアナタはイギリス型だといわれるんですよ」

やや冷かに私を見下して椅子から立ち上がりながら腕時計をちらと見て、

「もう十二時近くね」

ひとり言のようにいいながら彼女は先に立つて母屋の方へ歩みを運んだ。

(P.187, 188)


興味深いのは芦田がわざわざこの会話を書いて、公にした意図である。

明らかにマリーは芦田に何らかの感情を抱いているのであるが、芦田青年は気付いていないのか、もしくは気付かないふりをしている。

私は、この会話を交わしているときに芦田はマリーの意図に気づいていなかったと感じる。

後年になってこの会話に込められた真の意図に気づき、多少のうぬぼれの気持ちもあってこれを書いたのではなかろうか。

どちらにせよ、男の書く旅行記の類で現地の女の記述が出てこないものはほとんどない。

この点、三島由紀夫の「アポロの杯」は20代で書かれた海外旅行記にも関わらず、女についての色気ある描写がまったくないのは逆の意味で印象的である。


古い旅行記を読む楽しみは「二重の距離」である。

日本とその国との物理的な距離と、今の時代とそれが書かれた時代の時間的な距離。

この2つの隔たりによって、ロマンスと旅情がより一層湧いてくる。