女の美に感嘆する軽薄

20/April/2021 in Tokyo

海外に住んでいた時分、私は何度か同性愛者だと見なされたことがある。相手は、私の服装や言動や雰囲気からそういう印象を受け取ったということだが、私自身そうやって誤解されることを楽しんでいた節がなかったともいえない。

近年は韓国発の男性ポップグループが世界で人気で、彼らは化粧をしていたり、細身であったり、おしゃれであったりと、非常に女性的である。また日本においては、男が化粧をまとって女役を演じる歌舞伎が確固たる伝統文化としてあったり、侍の間では男色が盛んであったり、また派手な化粧のビジュアルバンド系が一世を風靡したりと、男女の境界線は文化的に曖昧であった。しかしアジア、特に日本をふくむ東アジアのこのような男と女の観念と、欧米におけるそれとは真逆のところがある。

欧米では、男の装飾は服ではなく筋肉だと考えられており、細身であること、おしゃれであること、身だしなみに気を使うことなどはすべて女的だとされる。このような傾向は特にアメリカで顕著であって、ヨーロッパでは男が女性的な要素をもっていることがアメリカほどネガティブなことだと考えられていないように思えるが、それでも東アジアと比べると、「男らしさ」「女らしさ」といった観念がやや型にはまったものに見えることがしばしばである。

そういう中で私は、同性愛者だと間違われようとも、それで実際的な被害が私に及ばないのであれば、他人が私にどのようなイメージを抱こうともどうでもいいと思っていたので、一度は「自分は異性愛者であって、生粋の女好きである」と訂正するが、それでも相手がまだ自身の考えに固執するようであれば何度も訂正するような真似はしなかった。それは冒頭でも述べたように、私が人に誤解されることを秘楽のごとく捉えていたことも理由としてあるが、真の理由は、人の考えを矯正したり、人を説得したりすることにそもそも興味が薄いのである。こんなことを書くのは、私が同性愛者ではないといっても決して自説を曲げず、「君は同性愛者である」と強硬に主張する与太者に実際に出くわしたからである。

さて、私が自分を同性愛者でないと考える理由はなんであろうか。女性の美に感嘆し、女性が好きであればそれで異性愛者であることの証明は完了だという向きもあろうが、私の場合、美しい男性にも感嘆したり、興味を持ってしまうことが多いのである。自分のこれまでの来歴を振り返ってみても、中学時代から大学のころまで猛烈にある男性歌手が好きであったし、またそれ以降も、極端に興味を惹かれて心酔してしまう対象はいつも男性である。対して女性に対しては、同じ程度の陶酔や傾倒を示してことはいまだかつてない。道を歩いていても、魅力的な男性がいれば振り返ってしまうし、それは美しい女性に対する反応と同じである。

しかしそれでも私が自分を同性愛者だと考えないのは、男性に対しては一度たりとも性的欲求を抱いたことがないからである。男性の美しい容姿とか、すっきりした身体つきとか、魅力的な雰囲気とかに感心することはあっても、それが女性に対した場合のように、自分の性的欲求と結びつくことはない。その身体に触れてみたいとも思わなければ、裸を見たいなどの関心も湧いてこない。むしろそんなものは考えたくもないことである。しかしそれでも私は「あの男はGood-lookingだ」とか「あの男は魅力的な手をしている」とかいった、普通は男が女性に対していうセリフを男性に対して迂闊に、遠慮なくこぼしているので、そういうところも私が同性愛者の嫌疑をかけられる要因となっていたことは否定できないのである。

しかし常々思うのは、男の美に感心することの不思議である。つまり私はどうしても、男を賛美するのに比して、女を賛美することは薄っぺらいという感覚が抜けない。女の美に感嘆することは、美に対するあらゆる種類の感嘆の中でもっとも低級なものであるとの感覚が拭えないのである。女の美貌に惹かれることや、魅力的な女の一挙手一動に目を奪われること、つまり女に関心をもつこと全般に対するこの卑しい感覚の源泉はなにかと考えると、それは男の女の美に対する感嘆の行き着く先はセックスでしかないからであろう。

男が美しい女や魅力的な女に惹かれることの動機の根源は肉欲である。往来の女を目で追うのも、主演女優に惹かれて映画を観に行くのも、同僚女に平俗な賛辞を与えるのも、すべては「この女とセックスしたい」という動機に基づく。出発点も到着点も性欲でしかないのであれば、遅かれ早かれ軽薄な印象を抱くことは免れ得ない。対して、美しい男に対する関心の動機はなんであろうか。男に賛辞を与えても、異性愛者の私がそこから得るものは何もなければ、そもそも「得たいもの」自体がないのである。しかし無目的であり、無利益であるからこそ、そこに惹かれることには論理を超えた、何か秘めたる目的が蔵しているかに見える。

女性の美は性欲の消費の対象でしかないのに対し、男性の美には、消費することのできない、摩耗しない、永続的な秘めたる神髄があるように思えるのである。