by axxxm
25/April/2023 in Tokyo
私と日本語の関係は知らぬ間に非常にねじれてしまった。
話す、書く、読む、聞くの4つの側面から私と日本語の現在の関係を述べるが、その前にまず重要な前提条件を書く。
過去10年の多くの時間を私は海外で過ごした。
そして海外では常に日本人を避けていたので、その結果として日本語を話す機会、つまり日本語を人とのコミュニケーションツールとして使う機会はなくなった。
人とのコミュニケーションはすべて英語だった。
しかし日本語をまったく使わなかったわけではない。日記には使っていた。
「書く」とは自分との対話である。私は日本語を自分とのコミュニケーションにだけ使っていたのである。
その結果、人とのやりとりに日本語を使う場面・・・会話やメールなど・・・に、はなはだしい違和感とストレスを覚えるようになった。
具体的には、頭に英語で浮かんだことを日本語へと翻訳するストレスであるが、しかしこれは末端の問題であり、実は最大の障害は、日本語が英語のようには気楽に話すことができない言語、つまり壁を最初に立ち上げては、その高さを常に測りながらでないと前に進めない言語であることだった。
しかし英語という第二言語は、私の精神・こころと密接には結びついていない。
私は、「書く」という自分との対話を通して日本語との関係を深める一方、人とのやりとりには私のこころとの結びつきがゆるい英語を使っていたのである。
人とのコミュニケーションに日本語を使うことに、妙なナマナマしさを覚えるようになっていった。
さらに、日本語を使うことは自分のこころの奥深くへと他人を深く招き入れるリスクにも見え始めた。
ここには当然、海外生活が長くなって、日本語の話し手である「日本人」という人たちの心理や考え方から距離ができたことも影響を及ぼしている。
私は海外に行く前から、日本語の敬語というものが自己防衛のための便利なものだと思っていた。
敬語とは人と距離を置くものである。
距離を置き続ける限り、その他人は私の近くに来れなければ、私の内に許可なく立ち入ることもできない。
敬語とは拒絶の道具だった。
そして海外生活の結果、日本語全体が他人に対する拒絶の道具になってしまっていた。
これは話す、書く、読む、聞くの4つの面に次のように表れている。
― 話す
ずいぶん長い間、私は日本語で話をしたいと思っていない。
もし相手が英語を使えるなら、私は英語で会話をし、英語でメッセージのやり取りをする。
相手が日本人の場合、日本人同士が英語で会話をする不気味さはわかるので日本語で話すが、メッセージのやりとりは英語でしたい。
日本語を学ぶ外国人が日本語でメッセージを送ってきたり、話しかけたりしてきても私は英語で通す。
それを「英語の練習をしたいんだ」と低俗な誤解をされても、私は英語で通す。
日本語で話したくないのである。
いまの私にとって日本語はあまりにナマナマしい。
― 書く
こころの中に浮かぶ漠然としたもの。
それを捕らえて言葉へと定着させることや、それにさまざまな角度からアプローチして発想を広げていくプロセスのためには、日本語がもっとも私には適している。
さらに日本語は「書く」という動作時代が楽しい。
漢字/ひらがなの字形の美しさ、文字のつながりの面白さに気が付いたのは、海外に住んで日本語から少し距離を置いてからだった。
― 読む
単なる情報取得や単なる「知る」ためではなく、五感でもって「感じる」ための言葉は私には日本語しかない。
三島由紀夫や谷崎潤一郎の文章の美しさは決して翻訳では味わえず、日本語を母語とする日本人にしか感得できないという確信がある。
「読む」ことは「人(著者)とのコミュニケーション」といえるが、ここでの主導権は100%私の手中にあって、場所も、時間も、進むスピードも、放棄することも。すべて私の意のままである。
日本にいる時は毎日かならず本を開くので、話す、書く、読む、聞くの中で「読む」に費やしている時間が最大のものであろう。
しかし日本語を、特にひと昔前の日本語を読めば読むほど、好みが厳格となり、現代日本語との距離が空いていく「弊害」もある。
ネットの記事や最近の本などは、内容以前に書かれている日本語がひどく、読み進めることに不快を覚えるものが少なくない。
例えば「多いです。」「わかりづらいです。」「望ましいです。」といった「形容詞 + です」が使われていると、いらだちすら覚える。
これは次に述べる「聞く」ともつながってくる。
― 聞く
これが今回もっとも書きたかったことである。
日本語を話す機会を避けているとはいえ、日本にいる以上、日本語は常に耳に入ってくる。
駅のアナウンス、テレビのCM、ネットの動画......、聞こえてくる日本語は多いが、もっとも耐え難いのは普通の日本人の話し言葉である。
それは声の質や高低といったことではなく、日本人の話し方自体に不快がまとわりついている。
痴呆のような、賛同をあらわす「ねー」「そうだね」「うんうんうん」の無駄な繰り返し
「(渡辺で)ございますけれど......」という文末を言い切らずしてにごす弱さ
「......というわけではないけど」といって、わざと過剰に言っては自ら引き返し打ち消す弱腰の言い方
自分ひとりで文章を完結させず、相手に引き取ってもらい完成させることを期待する依存体質
許しを乞うような、自信のまったく欠如した上がり調子の語尾
目を合わせず、時折りチラチラうかがう目線
特に違和感を長い間覚えていたのは、センテンスをぶつぶつと切る、なめらかさの欠けた話し方である。
こちらの最後にも書いた通り、これは日本人が「共話」という話し方をしており、どちらか一方でなく、話し手と聞き手が一緒に会話を作り上げて、前へ進めていくためである。
そして上で挙げた日本人の不快な話し方の源は、すべてこの「共話」というコミュニケーションに由来する。
それゆえに、「ねー」とか「うんうん」とかいった相手からの反応やあいづちがないと日本人は不安になる。
それが甚だしくなって、ひとりで話していても自分で「うん、うん」とあいづちを挟む話し方をする人もいる。
しかしこういうものがすべて、いまの私には奇怪に見える。
臆病、小心、過剰、曖昧、過敏、建前、矛盾、弱さ、脆さ......これらの日本人の病的な気質の現れにしか見えない。
そのためカフェなどで日本人同士の会話が聞こえてくると、私は急いでイヤホンを耳に入れる。
そしてこれは数日前に気が付いたが、私はYouTubeで英語のものはどのようなものでも見る一方、日本語のものはニュース、あるいは日本に住んで日本語を上手につかう外国人のものしか見ていない。
日本人、特に若い日本人が日本語を話している動画は実に不快だ。
私はそこに日本人のオドオドした気質や、人目が気になってしょうがない過剰な自意識、同意してくれる人を求める心性=拒否されないために自分からも拒否しないという病的な精神の弱さしか見ない。