わたしと芸術

7/February/2020 in Warsaw

私はあらゆる作品(往々にして「芸術作品」や「アート作品」と呼ばれるもの)に、クリーンなイメージを持てない。

それはひとえに「作品とはその制作者の苦悶の表出である」という私の考えに依る。

自分の中にある醜いもの、中でも「最も醜いもの」を素材に作り上げられたものが、どうしてクリーンでありえようか。


私は、創作活動とは余暇があって成り立つと考える者である。

私の理解によれば、あらゆる芸術作品にはスーパーで売っている人参1本の価値もない。

なぜなら、人間の生存のためには食料の方が、すなわち肉体的充足の方が、芸術作品や創作活動からもたらされる精神的充足よりも優先されるためである。

そのため、あらゆる芸術作品、あらゆる創作活動は人間生活の余剰に過ぎず、それが現代社会においてこうも高く評価されているのを見るにつけ、意外の感に打たれる。しかもその評価されているものが、「最も醜いもの」を元に作り上げられているということを考えるに至っては!


しからば、どこから創作活動は始まり、それはどのような必要性をもって今も存在しているのか?

始まりは人間が「生きるための活動」にとらわれる必要がなくなった地点であり、それは人間の祖先が食料保存の技術を発明したあたりであろう。

そして現代における必要性とは?

それは一言で言えばデトックスである。

人間が生きていく中で、我々の心、魂には様々な「カス」が蓄積されていく。それは有害なものであり、時たま取り除く必要が出てくる。その取り除く方法として、一つの有効な手段が創作活動である。

創作活動以外にも「心のカス」のデトックスの方法としては運動がある。

私は運動の方が、創作活動よりもあらゆる点で数段優れていると考えている。

創作活動は、我々自身への関心を深めるところから始まる。それは人間を内向きにして、誰もが持つ心の奥底のドロドロしたものへの気づきを深めさせる。しかしそれは生きる上で必ずしも知る必要のない事柄である。知らないで生きていく方が数段幸福である。

我々は「知ること」よりも「知らないこと」から得る幸福の方が大きいのであるが、人間は好奇心から、往々にして知らなくてもいいことを知ってしまい身を滅ぼす。

その点、運動は創作活動とはまったく逆のベクトルの動きであり、運動をしている最中には、関心を自分自身に向ける必要もなければ、心のドロドロしたものを感じる余裕すらない。

より多くの人間が運動に精を出せば、現代社会のあらゆる所で溢れかえる「アート作品」「芸術作品」と呼ばれるゴミの数も減るであろう。


さて、「心のカス」という老廃物、生きる上で有害な「毒」を抜くための創作活動で作り上げられたもの、それがいわゆる「作品」と呼ばれるものの実態である。

このようなこき下ろした視点から作品というものに接している私でも、稀に、非常にこころ震わす作品に出会う。

それは「こころ震わす」というよりも「こころ惑わす」「こころ誑かす」という表現の方が適切かもしれない。

それらの作品に共通しているのは、制作者自身を徹底的にその作品に叩きつけているという圧倒的な衝動性である。

通常、それらの作品には制作者の心の深奥のドラマが隅から隅まで、むせ返るほどに充満している。

制作者が「心の中のじたばたするもの」をなんとか縄で押さえつけ、監獄まで引きずり、そこに閉じ込め、そこから拷問にかけて絞り上げ、出てきた苦しみのうめき声を煮詰めて濃縮させた、という趣がある。

作品が遂に完成した時、制作者が「心の膿」を出し切ったことから、とても深い(しかしとても儚い)満足感に浸ったことがありありとわかるような趣がある。

「(私の身の上に起こった)私のドラマ」ではないのにもかかわらず、まるで我が身に起こったかのような生々しい趣がある。

それは「美しい」だとか「綺麗」だとかの、作品について述べる際に濫費される月並みな言葉では決して補足され得ないもの、否、対極のもので構成されているのである。

すなわち心の汚濁、心の中の「最も醜いもの」。

それをなんとか捕まえ、真っ白のキャンパスに叩きつけ、作品として昇華させた制作者のその勇気と偽りのなさ。

同時に、その作品から覗く闇の深さ、作品が完成しても決して解放されることはなく、束の間の解放感の後にはさらにより深く取り憑かれ、一生その苦悩につきまとわれ続けるという制作者の運命と精神力に対する畏怖。

そこに私は心打たれるのである


人間の中の何か美しいものから、美しい作品が生まれるとは私には到底思えない。

美しいものから美しいものを作っても、それは所詮、複製品で何の価値もないガラクタに過ぎない。

そして「美しいもの」とは、純度が高いためにそれだけでは認識が困難なものであり、周囲に美しさ以外の要素があるからこそ、我々は美しさを発見し、認識できるのである。

美しい女の美しさを男が認識でき、かつそれを崇拝するのも、世間には「美しくない女」が数多くいるためである。

真逆の要素によってあるものが相対的に輝き出す、というのは、人間の生が死によって輝くこととよく似ている。

「生」を一等輝かせるものが、「生」の対局の「死」であるように、「最も美しいもの」を一等輝かせるものこそ「最も醜いもの」なのである。


作品のこのような生成過程に思いを巡らすと、私はいつも「作品」というものがどれだけ「精液」と似ているかを考えざるを得ない。

精液のあの汚らしい臭い、粘ついた質感、存在の無益さ、それはまさしく「カス」であり、「膿」であり、「汚濁」であり、「毒」であり、「一番醜いもの」である。

生きている限り身体にたまり続け、折を見て除去しなければ害をなすもの。

放出した後、一瞬の解放感と巨大な空白感をもたらすもの。

汚らしいものと唾棄され、掃き溜めに日夜捨てられる運命にありながらも、一生に一度か二度は「美しいもの」を生み出す原料となり得るもの。

どれだけ強くキャンバスに叩きつけられるかに、「心のカス」が「作品」として昇華されるか否かがかかっているように、どれだけ勢いよく「飛ばすか」に精液の存在価値がかかっているところまでそっくりである。

それはまるで、作品というものがその生成過程からして決してクリーンなものとしては存在し得ないように、私たちの存在も精液によって生み出されたという事実に由来する穢れた感覚からは、決して逃れ得ないことを差し示しているようでもある。