定住の条件

30/December/2019 in Warsaw

数年前まで、日本国とのお付き合いは年に一回程度の「里帰り」に限らせて頂き、それ以外の時は海外にいようと考えていた。

しかしそれから年月が経るにつれ、このような考え方は徐々に変容してきた。

そして今に至っては、「いずれは日本に帰るであろう」という気持ちが強まってきている。


母国以外の国に住む理由、動機というのは様々あるだろう。

母国が経済的な問題を抱えている、政情不安である、戦争が起きている等は、人間の歴史の中で最も切実、かつ最も頻繁に現れてきた移住の理由である。

かような理由で移住をする人たちは未だに数多くいるが、ここでは大きな政治経済的問題を抱えていない先進国の人間が他の国に移住するケースに的を絞る。


先進国の人間が他の国に移住をし、一定期間(少なくとも2~3年)過ぎ、それでもまだその国に長期滞在をする意思を持っている場合、それは次の2つの理由に依るものしかないと私には思われる。

一つは仕事、もう一つはパートナーシップである。

「仕事」とは、当人が長年夢焦がれてきた仕事、いわゆる「ドリームジョブ」と呼べるものにその国で関わっている場合である。

「ライフワーク」と呼んでもいい。

今ではリモートワークなどで、ロケーションフリーの仕事が増えてきているようにも見えるが、依然として大半の仕事は、ある土地にい続けない限り関わることができない。

そのような仕事がある場合、その国にい続けたいと考えるのは当然である。

つぎに「パートナーシップ」であるが、これも当然その国にい続けない限りはそのパートナーと肉体的に一緒にいられないわけだから、その国に長期滞在する動機となる。


仕事とパートナーシップ以外の理由、例えば「この国が好き」とか「この国の文化に興味がある」とかの理由というのは、移住するきっかけ、または中期的な滞在(2~3年)の理由にはなり得るだろうが、それ以上の期間の滞在の理由とはなり得ないと感じる。

おそらくこれは、これらの理由が自分の内側に由来するもの、自分の感情に関わっているものであり、それだけ恣意的に変えることができてしまうからであろう。

対して仕事、パートナーシップというのは自分以外の外部のものである。つまり自分の意志で100%コントロールできるものではない。


仕事がドリームジョブと呼べるものではない、もしくはロケーションフリーな仕事である。そして特定のパートナーもいない、という人はいずれは母国に帰ることになるのだと思われる。

なぜなら、その国にい続ける強烈な動機がないからである。

自分の母国であれば、「母国」ということ自体が強力な理由となる。

母国に住む、というのは我々の不可侵の権利ともいえるもので、誰がそこに異を唱えることができようか。


母国に戻ってきた人間は、周囲に帰国の理由を問われ「外国の文化に馴染めなかった」「母国が恋しくなった」「母国の方が便利」云々と言うだろう。

そのどれも真実であろうが、真の核心的な理由は「彼の地に住み続ける動機がない」ということにあるのではなかろうか。


今や我々は、あらゆるところで自分の行為、感情の説明責任を日夜、果たし続けなければならない。

あらゆる権威、伝統の地位を引きずり落とし、懐疑の精神を持つよう教育をされた現代人には、その結果得た自由の対価として説明責任があまねく課されている。

これまでの慣習に従って生きる人間の人生は「惰性」「懶惰」と蔑視され、レストランのアラカルトメニューのように自分の人生を自分の好ましい色だけで飾れるかのような教育を受けている現代人は、どのような行為であれ、どのような感情であれ、どのような思想であれ、その動機となった「それらしく聞こえる理由」を言語を使って鋳造する義務が課されているのである。

そしてこの説明責任とは、もちろん周囲に対するものも含まれているが、自分自身に対する説明責任の方の比重が圧倒的に重い。

なぜなら、権威や慣習などの自分の外側にあるものに寄りかかることがもはや許されていないので、絶えず自分自身の中に再帰的に動機を作り続けなければならないからだ。


このようなことを考慮すると、多くの人が母国に戻る精神的な理由というのは「住み続ける動機の喪失」「彼の国にい続ける理由が見つからない」ということに依るものと思われる。

この時、「母国」というものをどう捉えていけばいいのだろうか。

それだけ母国というのは、「彼の地で数年『浮気』をしてきた私でも受け入れてくれる、山よりも高く海よりも深い愛情に満ちた場所である」と考えればいいのか。

それとも「理由がなくても、動機がなくても是認してくれる、緊張感も張り合いもないぬるま湯」と考えればいいのか。

どちらも悲劇である。