死ぬと決まった人間の幸福

28/December/2019 in Warsaw

これまで数カ国に年単位で長期滞在をしてきたが、ある国を去る時の解放感というのはなんとも形容しがたいものがある。

これまで同じ地平で過ごしてきた周囲の人間たちをさし置いて、自分だけが先んじて別の境地へと飛び立つ感覚。

生活がもたらす無数の雑事と雑念から解放される感覚。

未解決の問題は未解決のままに、人生の一つのチャプターを捨て去って、新たなチャプターへと飛び込む感覚。


卑近でわかりやすい感覚でいうと、混み合った電車での帰り道、「トイレットペーパーは家に十分にあっただろうか? 帰り道でスーパーに寄って買い足す必要があるだろうか?」「牛乳は何本買おうか? 他に重い食材があったら、一本にしといたほうがいいだろうか?」などのありふれた日常の雑事を、全く考慮しなくてよくなる感覚。

バカンスに行く前日、明日も明後日も細々とした仕事に追われる同僚に囲まれた職場で、自分ひとり、翌日から始まるバカンスという「非日常」の快楽に思いを巡らす感覚。

人間生活へのこまごまとした関心は吹き飛び、「日常」とか「地に足のついた生活」とかのガラクタなお題目から解放される感覚。

そう、解放感。

比類なき解放感と自由の感覚。

これまでこの街で日々自分を悩ませた種々の懊悩は、この最後の解放感を強調するために......否、強調するため「だけ」にあったのではなかろうかとすら思えてしまうような感覚。

ついに人生における感情の収支が均衡し、プラスとマイナスがゼロとなる感覚。


思うにこれは、死を決めた人間の心境に近いものがあるのではなかろうか。

死を決めた人間とは、別の境地にいくことが決定している者である。

この世に生きている人間の抱えるあらゆる雑事から、死によって完全に解放されることが決まっている者である。

死によって、明確に「この世ではない場所」へと拉し去られることが決まっている者である。


引っ越しを前にした解放感と、死を前にした解放感。この2つの感覚は奇妙なほど似ている。

しかも死の場合には、引っ越しにはあり得る「行為後の後悔」が発生する可能性はなく、行為前の清々しい解放感と甘い期待しかないのだ。

我々は日常的な「引っ越し」という経験の中で小さな解放感を味わい、いずれおとずれる「最後の解放」、すなわち「死」に備えている、といえるのではなかろか。