行為と意味

28/December/2019 in Warsaw

旅行を計画する時、いつも同じ問題にぶつかる。

旅行の旅先、日程、移動手段を決められないのである。

そしてそこでウダウダしていると、しまいにはいつも同じ疑問が湧き上がってくる。

「旅行に行く必要はあるのだろうか?」


問題の核心は、「I can go, but I don't have to go」という絶対的な必要性を欠いた状況にある。

これはサービス産業全般にいえる事だ。

サービス業、つまり第三次産業に含まれるものとは基本的に贅沢品であり、日常生活に必須といえるものではない。

旅行もしかり。

旅行に行ってもいい。しかしそれは必ずしも「しなければならないこと」ではない。

ここに逡巡を生む源泉がある。

そして翻って私の人生を眺めてみると、必要性を欠いたことばかりで埋め尽くされている。

このような中で私が「その行為をする意味」だとか「その行為の絶対的な必要性」だとかに関心を奪われ、必要性の有無で行為を評価してしまい、行動を延々と延期し続ける態度を育んだことは不思議ではない。

それは押し進んで、「自分の人生の意味の有無」だとか「自分という人間の必要性の有無」という問題にまで広がっている。


つまり私は「意味」「必要性」というものを人並み以上に要求するようになったとも言えるだろう。

しかし「意味」とは事前にわかるものではなく、行為の過程、または行為の後に徐々に明らかになるものである。

もしくは、「意味」とは与えられるものでもなく、自分から与えていくものである。

このような「意味」の生態原理を理解していながらも、否理解しているが故に、行為に踏み出せない自分をここに発見するのである。

行為に先立つ意味を求める心性とは、私に限らず多くの現代人が侵されている病理の一つであろう。