刹那の唄、歌う

12/December/2019 in Warsaw

自分のこれまでの生を振り返ってみると、自分は21世紀の人間のある典型例を示しているかのように感ずる。

コミットメントを避け続ける人間。

あらゆる束縛からの解放を至上価値としている人間。

自由という境地を目指して制約や束縛をできる限り取り除き生きている人間。

選択肢の拡大にばかり注目し、選択すること(つまり、決断すること)を絶えず延期している人間。

すべての物事を不確定にしておき、将来の選択権を留保し続ける人間。


ある意味、私の過去10年の生き方はこれを体現したようなものであった。住む国が数度変わったが、国が変わるとは、多くの束縛がゼロの状態に戻ることを意味する。

束縛がリセットされる感覚とはなんと心地よいものなのだろうか。それまでの過去と、これからの未来とがはっきりと分断される感覚。過去と未来の狭間に立つ感覚。「今を生きる」「今に生きる」「今のためだけに生きる」「過去も未来もなく」という感覚。刹那の唄を歌う感覚。

その反作用として、「(何かを)積み上げる」という感覚は逸した。「目標を見据えて生きる」という感覚も逸した。

社会の多くの人が当たり前に享受する「普通の喜び」というものが体感として理解できなくなった。


このような境地に至って思うのは、決断とはどのような生き方をしていてもいずれは避けられないということだ。

今だに私がこのように自分の人生を完全には受け入れられず、社会のマジョリティーの物の見方で自分の人生を眺めているのは、私自身が社会のマジョリティーの価値観に十分に侵されているからである。

社会の中に生きている以上、もとよりそれは避けられないことであるが、自分の人生を受け入れるためには、自分がどのような生き方をしていくか、自分の態度を決める必要がある。

マイノリティーの生き方を標榜し、実践しているように見えながらも、その実マジョリティーのコミュニティーへの関心と羨望を抑えられない人間が山ほどいることを私もよく知悉している。

しかし、マイノリティーでありながらマジョリティーと同じ権利、感覚を享受することは原理的に不可能なのである。


さて、決断とは自分がマイノリティーとして生きるのか、もしくはマジョリティーとして生きるのかという2つに集約されるが、最近私が思うのはマイノリティーとして生き続けることの困難である。

マイノリティーに生きることは、マジョリティーの価値観に反発しながらも、しかしマジョリティーのコミュニティーに承認されることを望む生き方を意味する。つまり根本的に大きな矛盾を孕んでいるのである。

マイノリティーとして生きる生には「拒絶」の観念が強い。つねにマジョリティーからの逆風に煽られ続けるのだから。

しかし、このような「拒絶」と、それと対になる「受容」の2つの態度を比べると、「受容」の方が数段成熟した態度なのではなかろうか。


「私はみんなとは違う」という所に喜びを見出すか、「私はみんなと同じだ」という所に喜びを見出すか、これは畢竟、各人の生のスタート地点の違いなのであろう。

幼少の頃より、自分と世界との距離を感じ続けてきた人間にとっては、「私はみんなと同じだ」というのは目指すべき境地になりうる。

一方で、そのような疎外感を感じなかった人間にとっては、「私はみんなとは違う」という感覚が目新しいもの、羨むべきものに見える。

もしくは、「私はみんなとは違う」という感覚に特に関心を覚えず、そのまま自分がどちらの世界に所属しているか意識しないままに「幸福な」人生を送る人も多かろう。むしろこのような人たちこそが、この世の構成員の大半を占めているではなかろうか。

そして私が最も羨ましく思うのは、このような人々の生である。

自分がどのような所属にあるのかを意識せず、意識する必要も感じず、選択肢が選択肢であることを意識していないのにも関わらず、選択したものが常に最大公約数的にマジョリティーの価値観に合致している人間の生。

自分を客観視することから免責され、自分の主観世界をそのまま外界に投影でき、そしてその主観世界が周囲の人々のそれと合致している人間の生。

見たものをそのままに信じられる人間の生。

猜疑の観念に侵されていない人間の生。


過剰な自由の中、人生のすべてを理性の明るみに引き出し、ビュッフェレストランでの食事のように人生を自分の好きなものだけで飾ることができると考えている人間、人生のすべてを自分の意思でコントロールできると思い込んでいる人間とは、つまりそれだけ猜疑に深く侵されている人間なのである。

そしてこのような人間にとって、猜疑こそ人生の航路を進む上での一番の味方でありながら、猜疑こそ自分の人生を阻害している一番の怨敵なのである。