美しい女

11/March/2020 in Warsaw

ウクライナはキエフを去る。機上の人となる。

離陸前、キャビン・アテンダント(CA)から非常事態時の対処について、いつものレクチャーがある。

CAが私の横に立つ。

とても美しい女性CA。

「白人女性」とか「ヨーロピアン」とか「東欧女性」とかの言葉から日本人が連想する美しい女性像にぴったりと合致するような美しさ。

年齢は22、23歳ほどであろうか。未だ加齢による衰えを免れている。

彼女の容姿の美しさだけでも印象的だが、その印象をさらに深めたのが彼女の身のこなしである。

まるで軍隊の教練のように、意識によって、自意識によって徹底的に統御された動き。

彼女の中には「無意識」なんてものは存在していないような趣。

意識は彼女の肉体のすみずみ、指の先一本一本にまで行き渡っており、まるでひとつの舞踏を見ているかのような錯覚を私に起こさせた。

彼女の動きは、私から離れた所で同じくレクチャーをしていたもう一人のCAの、緩みとしまりのなさが散見される所作とはまるで正反対のものであり、立ち方(足先を片方だけ真っ直ぐに、もう一方の足先は斜め45度に開いていた)にまで緊張が漲り、統制の意識に満ちていた。

それは「意識」というよりかは、既にひとつの硬い「意思」であった。

彼女の全身から発せられていたあの様式美は一体如何程であろうか。

どれほどの修練があの背後には秘められているのだろうか。

そしてあの容姿の美しさ。

あの肉体、および挙措の完全なる様式美と寸法の狂いなく釣り合った容姿の美しさ。

その美しさのどこかに、まだ少しの幼さを、今の私は見つけることができた。


私の目の前に酸素マスクを置いていたので、彼女の手がよく見えたが、スラブ系の女性によくあるような、大きな手をしている。

やや痩せぎすなくらいの身体つき、上半身全体が細いので、腕の長さが過剰なくらいに際立って見える。


彼女が去り、彼女が残したその冷たい余韻を脳裏に感じていると、"Beauty is in the eye of the beholder"という俗な一文がいかに虚偽に満ちた主張であるかを身の内に痛切に感じる。

これは"Beauty does not exist on its own, but it is created by the observers"、すなわち"Beauty is subjective"ということだが、ある種の美、すなわち「真の美」には有無を言わせず万人を感嘆せしめるだけの圧倒的な力と説得力がある。

そのような美に感嘆しないのは所詮はmarginalな人間たちであり、例外的存在である。

そしてこのCAの美しさとは、決してsubjectiveなものではなく、全くのobjective、absoluteなもの、「普遍の世界」に属するものであった。


このようなことを考えながら、ふと私は彼女がこれまで自身の美とどのように付き合ってきたのかに思いを巡らした。

彼女が自身の美を意識をしていなくとも、いや仮に意識をしていて隠したとしても、美は発見される。間違いなく。

それが顔の美であったのならばなおさら。

なので彼女が自分の美を意識していないことはありえず、加えて多少なりとも、いや一定以上のうぬぼれを抱いていたとしてもおかしくはない。

CAなどという職業を選んでいることにも彼女のうぬぼれと自己陶酔が発現していると言える。


彼女が日常のあらゆる場面、例えば自身の美の力を行使しないでよい状況でも、他人は勝手に彼女の美に感嘆してしまう。

彼女が意識していない時に他人が勝手に感嘆してしまうことは、もはや彼女の責任の範囲外である。

これこそ、あの"Beauty is subjective"という俗な考えが適用されうる場面であろう。

これはつまり、美の主体が自分の美の力を行使している時、美は普遍的・objectiveなものとなり、主体が力を行使していない時に美は限定的・subjetiveなものとなる、ということだろうか。


どちらであれ、他人は勝手に美を発見していくのだ。

その影響と結果に関して、美の主体の責任は永遠に免除されているのである。