エリザ・パレンスカ(Eliza Pareńska)の話

30/October/2024 in Kraków

*English ver

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"Portrait of Eliza Pareńska"
Portret Elizy Pareńskiej/1905/by Stanisław Wyspiański


私がエリザ・パレンスカ(Eliza Pareńska)の名を知ったのは、スタニスワフ・ヴィスピャンスキ(Stanisław Wyspiański)の絵を通してであった。
ヴィスピャンスキの画集で目にした時から、強く惹かれた。しかし、彼女の生涯について知ったあとで改めてこの絵を眺めてみると、ここには彼女自身すらも知らなかった深奥の秘密が実にありありと描かれているようにしか見えなくなる。

絵に色濃く出ているのは、16歳の少女の若さと美しさではなく、憂いである。若さがはらむ華やかさは、彼女自身からではなく、むしろ背景のゼラニウムの花の方に宿っている。群青色のドレスに白く長くたれ下がるリボンは絵のアクセントだが、その届く先、ぎゅっとにぎりしめた右手の緊張感は、彼女がなにかに脅かされており、そしていまこの瞬間も耐えていることを示しているようである。
絵は全体的に不穏で、不健康な気がみなぎっている。しかし私が今そのように感じるのは、彼女の人生について知ってしまったからであろう。

絵のモデルとなったエリザ・パレンスカについて調べると、「1888〜1923」という生の短さにまず注意を引かれた。
来歴には、三姉妹の末子であったエリザは生まれつき社交不安が強く、子供の時からアルコールを口にしていたとある。思春期を過ぎると、タバコ、そしてモルヒネといった薬物にも手を出すようになり、学業は中断。22歳で結婚し男児をもうけるが、夫は病死。彼女の父も列車事故で亡くなっており、これらが彼女の精神状態をさらに悪化させた。薬物依存の治療のため、ダボスの療養施設などに滞在するが効果は限定的で、1923年に拳銃で自分の頭を撃ち抜いて34歳の生涯を終える。

このような彼女の悲劇的な人生と、残された美しい絵。
このふたつの奇妙な関係性に興味を惹かれるのは私だけではないだろう。
薄命と永遠。
死と美。
人生と芸術。
彼女は描かれたことで生命のエネルギーをすべて吸い取られてしまったようで、もし絵にされていなかったら普通の人生を送ったのでは、と思われるのである。


彼女と絵の悩ましい関係性は、ある深遠な疑問を私に投げかけてくる。「芸術か。それとも人生か」というあの疑問である。芸術を通して永遠に近づくか、それとも自分の生命限りの生をいきるのか。
しかし彼女は絵のモデルにされただけであり、この絵によって生前有名になったわけでもなければ、人生と芸術のどちらを取るかを彼女自身で選んだわけではない。むしろ、人智を超えた「運命」によって、芸術を選ばされてこうなったのである。
ここで私は、ある遥かな気に襲われる。「どう生きるのか」という自分自身の人生を、私たち人間は選ぶことも決めることもできない。我々の生は、人智を超えた何かの下にあるのだろう。


私がいま滞在しているクラクフには、パレンスカ一族の墓があることを知り、ある晴れの秋の日の朝に訪ねた。石造りの大きな墓の側面の墓碑銘には、「ELIZA PAREŃSKA」という彼女の名と、「1888-1923」という数字が金色の文字で刻まれていた。
死から100年のあと、彼女の墓を訪ねる日本人がいることなど彼女は想像だにしなかったであろう。しかし彼女は絵になったからこそ、私はここまでやってきたのである。私は静かに手を合わせた。