ストーリー

20/March/2020 in Warsaw

現代は「ストーリー」で溢れている。

特にこれが顕著なのは仕事関連の領域で、起業家や経営者の「どうしてこの事業を始めたのか」という話題では、彼自身の人生経験や発見が今の事業にどのように繋がっているかといったストーリーが語られる。

自己の発見や内的な動機といったものがいかに今の活動に結びついているか、抽象的発見をどのように具体的な活動に変換したか、という点がこれらのストーリーのキモであり、その2つの結びつきが強ければ強いほど「良いストーリー」「読者の胸打つストーリー」となる。

一見脈絡なく見える種々の出来事をどのように一幕の起承転結ある、かつ簡潔なストーリーとして纏めあげるか、というStorytellingの手法が、経営者や代表といった組織を代弁するような立場の人間たちだけでなく、一人一人の人間にまで広く求められるようになったあたりは現代的な現象と言えるであろう。

就職採用試験における問答などはその典型で、応募者は自己の応募に至ったストーリーを、採用側は自社のストーリーを披歴し合う。


しかしこのようなことにある種の薄っぺらさを感じるのは私だけではあるまい。

ストーリーを作るとは、独立した個別の出来事の間に本質的には必要のない橋を渡し、工事完了後にその橋建設の理由を述べることである。

そのような不要不急な公共工事の理由を述べることに、偽証の匂いすら感じることは殊更異常な感覚でもなかろう。


このようなことを考えるにつけ、昔の人たちがいかほど善き生を生きていたかを思わざるを得ない。

わずか30年ほど前であっても、当時の例えば農家にその仕事をしている理由を聞けば、まずは「仕事の理由」などという頓珍漢な質問に対して怪訝な表情をされ、それでも食い下がって同じ質問を投げかければ「親がこの仕事をしていた」「仕事といえばこれ」といった実に素朴な、しかし実に的を得た回答が得られたであろう。

なぜ「周りの人がこれをしていた」とか「親がしていた」とか「これ以外の選択肢は考えたこともない」といったなすがままの自然さは否定され、意思の力をできるだけ強め、あるがままを否定し、それに逆行することが現代ではここまで奨励されているのだろうか。

現代人は自己の選択したものでないと自尊心を感じられないと考えているが、そもそも自尊心などというのは人間固有の感情ではなく、20世紀後半の堕ちぶれた人間の発明品であろう。

昔の人間は自尊心なんぞを斟酌しなくてもよい生を生きていたはずである。


人間は自由というものをひたすら求めて来たが、それの行き着く果ては過剰すぎる自由により逆に不自由さを感じる状況であった。

自由意思がなによりも優先される時代では、一人一人の人間には常に説明責任が課されている。

私たちは自己のあらゆる行為について、常に前後の脈絡が整った説明、つまり「ストーリー」を語ることが求められている。

しかし、私にはストーリーを無限に語り続けることが人間の生だとは到底思えず、またストーリーを語り続ける生というのは、他者に対して、世界に対して、そして自己に対して常に演技をし続ける人生に思えてならない。

我々はストーリーを語ることによって、知らず知らずに己自身を貧しくしてしまっているのではなかろうか。