by axxxm
25/March/2020 in Warsaw
行動は一瞬に火花のように炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持っている
― 三島由紀夫『行動学入門』
いくつかの後味の悪い記憶によって私はチューリップが嫌いである。
また、幼年時代によく学校でチューリップを育てさせられたので、私には「チューリップは子供向けの花」という固定観念もある。
しかし、先日スーパーに行った折に見かけた純白のチューリップの艶かしさは、2週間ほど経つのに今だに鮮明に記憶に残っている。
思わず見入ってしまう、というようなものではなかった。
なにより、スーパーは人で溢れており、チューリップは人通りの多い角に置いてあったので、立ち止まって見ることは難しかった。私は探し物をしていて、そこを通りかかっただけで、チューリップの存在に気づいたのは、かなり近づいてからであった。
しかし目の前に突然現れたあの白のチューリップは、これまでの私の固定観念を一瞬すべて拭い去ってしまった。
白く、生々しい肢体。
植物に肉体と呼べるものがあったのなら、この花弁こそそう呼べるのではないかと思えるような存在感。
しかしそれは決して重くるしい肉体ではなく、あくまでも10代の少女の肉体のような軽さがあった。
10代の少女との違いは、あのチューリップが自分の美しさを十分に知っていたことであろう。
花の美しさも、少女の美しさも、人生の美しさも、およそ美に属するものは、「その美がいずれは失われる」という認識が鑑賞者の側にあるからこそ保証されていると言える。
しかし、私があのチューリップを目撃したその刹那、私の脳裏にこのような認識が掠めただろうか。
もしかしたら、あの白いチューリップの美は、鑑賞者の認識にも主観意識にも関与しないで存在しうる、いわゆる「真の美」、Absolute beautyの類であったのかもしれない。
花に行動はない。
しかし一瞬の邂逅だけで、何かを要約してしまったのである。