隔離下の時間

1/April/2020 in Warsaw

外出禁止という異常な状況におかれ、時間の制約がある事柄、Time sensitiveな事柄を抱えた人々はどのようにこの状況に対処しているのだろうかと思いを巡らす。

来週から別居を考えていたカップル。

不妊治療をしていた夫婦。

心通じ会えそうな人に出会ったばかりの男女。

一週間後に大きな取引をまとめかけていたビジネスマン。

この世の中にはTime sensitiveな事柄が山ほどある。

明日でも明後日でもいい、ではなく、ある限られた時宜を逃すと2度と訪れないもの。


私は年齢というものを考えていかざるを得ない。

社会が停止し、周りの人々も前に進むことができずにいることが明白なので、自分が何をしていなくても、置いていかれているような感覚や何かを失している感覚、やるべきことをやっていないという感覚からは多くの人々が免除されている。

しかしそれでも時は流れ、流れた時は戻らず、そして我々は等しく歳をとっていく。この隔離により人生の時間が一時停止しているようにも見えても、現実にはそうでないのである。

個人の単位ではなく「世界」という集団単位で、私たちは強制的に人生の停止を命じられている。それは不平等であるとも不合理であるとも感ずることができる。しかし「この停止と同じ期間だけ寿命が伸びる」などという補償はもちろん行われない。誰の責めにも帰することができない事由によって、埋め合わせのできない不利益を被ることに我々は慣れておらず、そこにこの微妙な感情が発生する源がある。


こんなことを思うのも、私が外国生活という終わりが必ずあるもの、滞在時間を意識せざるを得ない生活をしているからであろう。

しかし世界のどこに住んでいようとも、我々は確実に時を失い、残り時間は減少しているのである。