人に感動しすぎること

13/October/2023 in Krakow

最近思ったのは、人の多様性、ユニークさ、個性といったことに私は関心を引かれすぎているのではないか、ということである。

「個性」といったものに目を奪われすぎていて、一人一人の違いといったものにとらわれすぎていて、その人をあまりに特別なものとして見てしまっているのではなかろうか。

つまり私は、人間といったものに簡単に感動しすぎるのではなかろうか。

その結果、全体像……その人の全体像……その人の属する集団に対する集合的イメージ(=ステレオタイプ)……を捉えることが困難になっているのではなかろうか。


一般的にこれは望ましい特性といえるだろう。

私は他人をステレオタイプで独断的に判断することを心地よく思わず、一人一人に語るべきストーリーが、個性が、美しさが、魅力があると思っているのだから。

しかし繰り返すように、これが、その人にだけ、あるいはその人の人格のある特定の部分にだけ私の関心を引き付けてしまい、その人を全体として把握することの困難へとつながっている気がしないでもない。


人間は世界をカテゴライズ(分類)して生きていく。

そして「言葉」とは、この世界の混沌を整理し、分類するために生まれたものだ。

しかし個々の違いといったものにとらわれすぎると、その分だけ俯瞰的な視点でその人をカテゴライズできず、彼の個性といったものに過度に注意が引かれ、彼をステレオタイプの型に当てはめることができず、私の時間を奪われ、その結果、実は何か他にできることの機会を逸しているのではなかろうか。


「人に簡単に感動する」というのは、創作に携わっている者にとっては実に望ましい特性だろうが、私も一人の人間であることを考えたとき、人間としての私、創作以外にも多くの事物が散乱している「私」という人間の人生にとっては、望ましいものであるのかは不明である。

私以外の人は、もっと冷静に、もっと冷淡に、他人を扱って、大雑把な分類の箱にぶち込んでいるはずだ。

そうやって「対人関係」という人生の大きな一部分をうまく処理して、人生の他のエリアへとエネルギーと時間を効率的に投入しているのではなかろうか。