by axxxm
18/April/2023 in Tokyo
伊藤詩織『裸で泳ぐ』に眼を通す。
興味を引かれたのは、筆者と日本/日本語の摩擦関係だった。
日本語しか話せないこの本の読者(つまり大半の読者)がまずつまずくであろう点は、文章にしばし現れる、英単語をただカタカナにしただけの、日本語としてはまだまったく馴染んでいない単語だろう。
「・・・迷いがない、コンプリートされた洗練さというか、粋を感じる。」
「うまく活用されていない決まりごとは常にリマインドしあうべきで・・・」
「つくってきた歴史を知り、今、グラウンド・レベルで何が起きているのか・・・」
「数々のバイトをジャグリング・・・」
これらの言葉を一般的な読者がどれだけ理解できるのかは甚だ疑問であるが、筆者の言葉遣いは、書き言葉だけでなく話し言葉においても私の幼なじみに実に似ている。
この幼なじみも筆者のように海外生活が長いので、日本語で話していても、英単語、あるいは日本語としては馴染んでいない英語の言葉/表現が出てくる。
それは私自身も海外および英語での生活が長いので、よくわかる感覚である。
頭に思い浮かぶものが英語であることは多く、そこに日本語へは置き換えられない言葉やイディオムが混じっていることも少なくない。
英語を日本語に訳すのが億劫であるというのは、実は最大の理由ではない。
日本語では表現できないのである。
海外での生活が長くなって困るのは、「日本/日本語」と「自分」の間に摩擦が生じることである。
この本にも筆者が「海外文化に馴染んだ私」と「日本社会に生きる私」の間で葛藤する場面が多く出てくる。
私もかつて同じ経験があり、今は以前よりうまく対処できるようになったものの、それでも依然として「日本文化」や「日本人」といったものに違和感を覚えることが多いことからも興味深く読んだ。
例えば敬語に対する違和感。
「〜させていただく」とか「〜していいですか」といった、普通の日本人であれば息を吸うかのように吐き出している、そして自分もかつては違和感なく使っていたこれらの表現を客観視してしまい、そこに日本人の卑屈と奴隷根性を見てしまう。
カウンターカルチャーショックは国籍を問わず誰しもが味わうものであろうが、そこで自分の母国語対してやや度が過ぎるほどの嫌悪感が湧いてくるのは、世界的に広く見られることなのか、日本人特有なのか、それとも私が言葉に過剰な注意を寄せているが故の特殊事例なのかはわからない。
しかし違和感や摩擦が文化・慣習といった領域にとどまらず言語にまで向かってしまうのは、日本語がハイコンテクスト文化という、文脈や状況への依存が大きい言語であることが一因であろう。
つまり自分と日本文化の間の距離が、そのまま自分と日本語への距離にもダイレクトに影響してくるのである。
相手の年齢や身分といった情報がないと話しにくい言葉が日本語である。
日本語では状況が言葉遣いを決定する。
相手との距離を測る目安となるこれらの情報は、敬語の有無だけでなく、話す内容、さらにはその会話に対する話し手の全般的な態度といった過度なほど広い範囲に影響してくる。
「空気を読む」という言葉は「状況を読む」重要性を説くものであり、外国人で日本語を学ぶ人が苦労するのは、実は文法や漢字ではなく、状況に依存する日本語の性質にあるのではなかろうか。
文脈や状況の理解は文法書の範囲ではなく、日本での生活や日本人との交流といった実体験が豊富にないと難しいであろう。