死を想え

15/February/2018 in Tokyo

「メメント・モリ」というラテン語を耳にする機会は、ここ10年ほどの間に非常に増えたと思う。

これもSNSの発達で、多くの個人の発言を目にする機会が増えたからだろうか。

さて、時代が下れば下るほど、ますます「どう死ぬのか」ということが大事になってきていると思う。

若ければ「どう生きるのか」ということが何よりも最初の人生の課題として立ち現れてくるわけだが、いずれ来る「死」を若いうちから考えることも決して徒事ではない。

今の時代、生きることよりも死ぬことの方が難しい。

先進国に住んでいれば、死にそうな人間や死ぬ可能性の高い人間には様々な最新医療が提供されて、何としてでも一分一秒でも長く生きることを、本人の意思に関係なく強制される。

「生」とは無条件に肯定的なもの、ポジティブなもの、否定は許されぬものと世間では考えられているようだ。

私もそれを否定はしないが、「生」にも様々な種類があることは考慮しなければならない。

卑近な言い方をすると、魂を失いながらただ漫然と生きることに、果たしてどんな価値があるのだろうか。

「魂の死」という言葉があるように、魂、つまり精神的な何かが死んだ後も、肉体的には生き続けるというのはよくあることだ。

ここで死が許されていなかった場合、この人の苦悩は如何ばかりであろうか。

生まれてから一度も激烈な情熱、荒魂、パッションを人生に感じたことのない人間ならまだしも、それを一度でも自分のうちに抱いたことのある人間が感じるその喪失の痛み、苦しみ。

そして、そのような志と肉体的な死が同時に訪れればまだ救いはあるものの、もし同時には訪れず、肉体だけが姑息にも生き延び、その後も漫然と生き続けるという事態に至った場合の苦しみは、想像を絶している。

これはやや極端で抽象的な例であったが、しかし今世界の先進国では、死にたくても死ねない人たちがたくさんいる。

そして彼らのそんな「死ねない不幸」を、特に若い世代は敏感に感じとっている。

それでも社会は「生」への無条件の崇拝と礼賛を止めないから、「死」という選択肢を与えることはいつも大きな議論を巻き起こして、そしてほぼ9割方、現状維持派、すなわち「生」の側が勝利を得ている。

今後、人間の寿命が延びて、人間の生が長くなる中では、ますます死について想いをめぐらすことが重要となってくるだろう。