宗教

19/February/2018 in Tokyo

宗教とは、無礼を承知で噛み砕いて言うと、瞑想やヨガなのではないか、というお話です。

日本ではあまり機会がありませんが、ヨーロッパに住んでいると、宗教を意識する機会というのが多くあります。

教会が街の中心部に建っていて観光の目玉となっていたり、家のリビングに宗教画が飾ってあったり。

ヨーロッパではトルコを筆頭に、中東・アフリカからの移民が多いので、イスラム教の方もたくさんいます。

イスラム教徒の場合、(人によりますが)女性がヒジャブという布を頭にかぶっていることが多いので、街を歩いていても、電車に乗っていても、その見た目からすぐにわかります。

私を含め、日本に住む日本人の多くの人が、「宗教」というものにネガティブなイメージ、そこまでいかなくてもどこか「胡散くさいもの」というイメージを持っているのではないでしょうか。

これは私個人の見方をあまりに一般化しすぎたものかもしれませんが、少なくとも私はそういうイメージを持っていましたし、今も心のどこかで持っていると思います。

改めて考えると、私の場合は「宗教」に、「排他性」とか「押しつけがましさ」「依存心」といったネガティブなイメージを見ていたように思います。

一つの教義・教典を唯一正しいものとして絶対視して(排他性)、それ以外のものの見方や意見を持つ人に自分と同じものを信じるよう迫り(押しつけがましさ)、それを繰り返すことでますます本人はその教義なしでは生きていけなくなっている(依存心)。

こういう書き方から連想できるように、私は宗教を信仰している人を、どこか過激なところがある人だと思っていましたし、そういう意味で、自分とは違う世界に住んでいる人だと思っていました。


ヨーロッパに住んでずいぶん経ったある日、モロッコ出身の女性と知り合いになりました。

会った当初より、彼女は自分がイスラム教であると言っていました。

彼女は私よりも3-4歳くらい年下でしたので、自分とほとんど同じジェネレーションに属する人。

自分と同じ年齢層で、そして宗教に関して最初からオープンに話すイスラム教徒の方に会うのはその時が初めてでした。

私は、ある理由からイスラム教徒の人と話をしてみたいと思っていたので、自分の宗教にオープンでかつ年齢も近い彼女に、いくつか質問を投げかけてみました。

質問といっても特にこれといった特別ものではなく、信仰についての思いや、信仰を始めたきっかけ、教義にもとづいて日々実践していること等についてです。

これらの質問は、人によっては失礼に感じる方もいるのかもしれませんが、彼女は特に気にする様子もなく教えてくれました。

私が彼女の話を聞いていてどこか拍子抜けしたような感覚を覚えたのは、「宗教」とか「信仰」とはいっても、別に何か強烈な気持ちやパッションを必ずしも抱いているわけではない、ということに気づいたからです。

彼女はイスラム教の教えに基づいて、口に入れるものには非常に気を使っていること、毎日祈りをささげていること等について話してくれましたが、それらは「~しなければいけない」といった風の強いられているものではなく、「親もこうしていたし、子供の頃からそういう生活だったから、今もそれを続けてるだけ」といった風の、肩にまったく力の入っていない、とても自然体なものでした。

「祈りをささげた後って、どういう気持ちになるの?」と聞くと、「自分の悩みとか嫌だったことが薄れたような感覚かな。だから悩みがあるとお祈りをしたくなるし、今では普段の生活に欠かせないもの」と教えてくれました。

それを聞いていて、私は内心「......それって、ここ数年流行ってるヨガとか瞑想をしてる人が言ってることとほとんど同じだ」と思っていました。

彼女にそれを伝えてみると「ああ、まさにそんな感じ」とのこと。

ここでようやく、自分の中に無意識にあった

瞑想・ヨガ:近年では非常に多くの人が、普通の生活の中で行う一般的な行為。

宗教上の祈り:限られた人たちが、高尚な志を胸に秘めて行う、特別な行為。

という誤った見方に気付かされて、また同時に、この二つの間に橋が架けられたようにも思いました。

瞑想・ヨガは、近年のスピリチュアルブーム等の影響で市民権を得て、多くの人に受け入れられて、一種の流行りのような感じになっています。

少なくとも今、ヨガや瞑想をしている人に対して、いかがわしい目を向ける人はほとんどいません。

しかし本来は、ヨガも瞑想も、宗教的行為の一つです。

そのような意味で、「祈り」が似たような効果(気持ちを落ち着かせる等)を持っているのはよくわかる話で、あえて「宗教上の祈り」と特別視する必要性もないのではないか、と感じました。

「祈り」とか「宗教」とか聞くと、どこか「自分とは別の世界の人が行っている特別な行為」だと無意識に考えていましたが、実際それを行ってる人にとっては、特殊でもなんでもない日常的な行動にすぎない。

これは当たり前といえば当たり前ですが、瞑想・ヨガという自分に近いもの、自分が「普通」だと感じているものとの間に、つながりや関係性を見つけられるまでは、気がつくことができませんでした。

後に、毎晩祈りを欠かさないという、自分と年の近いキリスト教徒の女性とも知り会いましたが、彼女もこのモロッコの女性と同じことを、自分の宗教の行為に対して言っていました。

「毎週教会に行ったり、毎日朝と夜に祈りを捧げることは、子供の頃からしていて自分にとってはもう習慣になってることだから、むしろこれをしない方が落ち着かない」と。

思い返してみると、子供の頃、祖父母の家に行くと、祖母が毎晩寝る前に、お仏壇の前で呪文をしばらくの間唱えていました。

当時の私は、別にそれを特別なことだとも、宗教的なことだとも感じていませんでしたが、よく考えてみると、祖母が毎晩していたことは明らかに「(先祖に対する)お祈り」でした。

これも同じで、祖母にとってこれは特別な行為でもなんでもなくて、日々の日常生活に組み込まれた習慣の一部。

そしてそれで得られる効果とは、安らぎとか精神的に落ち着くといった、ヨガや瞑想、もっといえばストレッチ等が与えてくれるものと同じ、と考えると、お祈りを行っている人たちも実は自分とはそこまで遠い世界の住人ではないと感じられます。

また「イスラム教徒」とか「キリスト教徒」とかのように、「~教徒」と聞くと、その宗教を完璧に信じていて、生活も宗教上の教えに完全に則ったものになっていると漠然と思っていましたが、それは本当に人それぞれで、厳格に教えを守っている人もいれば、「~教徒」とただ慣習的に言っているだけで、特に教えに則ってない生活をしてる人もたくさんいました。

「~教徒」と言っても、実際には人それぞれ濃淡があるということを知りました。

「宗教」と聞くと身構えてしまう人も多いと思いますが、そこで一括りにして決め付けず、その人が具体的にどのような信仰を持っているのかということや、どのように実践をしているのかといったことを知るように努めて、一人一人違うことを前提に理解を深めていくことが肝要なのだと思います。