日本の愛し方

20/February/2018 in Tokyo

ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの......」で始まる室生犀星の有名な詩がありますが、私が日本ついて思う時はいつもこの詩を思い出します。

故郷とは一旦外に出てしまうと、もう戻ってくることはできず、永遠に心の中でその記憶を反芻していくもの、となってしまうのかもしれません。

肉体的には戻ってこれますが、もう心は戻ってこれない。

故郷に戻ってきても、心はどこか虚ろで、外の世界のことをいつも心の片隅で考えている、という状態。

ドイツの詩人ヘルダーリンも「人間が自分と出会うには、一度故郷を離れ遠くまで旅立つ必要がある」ということを言ってます。

過去を思慕する態度はロマン派の最も典型的なものですが、私自身このヘルダーリンの思いは肌感覚として非常によくわかります。

特にヨーロッパという、日本からはるか離れたところに住んでいたこともあるので、より一層痛切に。

いま私は自分の故郷である日本にいますが、結局一度でも故郷を出てしまうと、漂泊の身となることは避けられないのだと思います。

そういえばロンドンで知り合ったある移民の方が「一度Home Countryを出てしまうとNomadic Mentalityが身についてしまって、定住するのが難しくなる」と言っていましたが、まさにその通りだと感じます。

自分自身、日本に今後死ぬまでい続けるとは思えませんし、実際数ヶ月後には国外に移動する予定です。

この漂泊は、次の安住する地が見つかるまでなのか、それとも永久に終わらないのか。

そもそもこの漂泊というのは、自分の意思で終わらせることができるものなのか、それとも年齢やら社会の常識やらのしがらみを考慮した結果として、終わらせないといけなくなって終わらせるものなのか。

これはもう少し生きてみないと、答えの出ない疑問です。

しかし一つ言えることは、何かの価値を正しく認識するには、それと一旦距離をおく必要があるということ。

距離が近すぎるというのは、自分のすぐ目の前に対象がいる/あるということで、対象の良い面も悪い面も正しく認識できません。

距離をおくことで見えてくるものはたくさんあります。

距離をおいたときに、そこで何を思うのか。

いま書いてきたことの文脈でいえば、日本を離れた時にそこで何を思うのか。

恋しくなるのか、もう二度と戻りたくないと思うのか。

そこで思うことこそが、自分の故郷に対するより真実に近い気持ちなのだと思います。